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更新日:2024年6月3日
稲作の伝来ルート
約13,000年続いた縄文時代も終わり、約2,400年前に北部九州へ弥生(稲作)文化が伝わりました。その伝来ルートについては諸説ありますが、中国・山東半島から朝鮮半島経由説が有力です。弥生時代は米作りが始まった時代であり、人々の暮らしは狩猟・採集から稲作農耕中心の生活へと変わりましたが、その状況は、地域・地方によって異なっていたようです。たとえば、北海道や沖縄は弥生文化が伝わらず、米作りが始まったのはずっと後のことです。私たちの住む東北地方には、関東や北陸地方とほぼ同じころに伝わりました。米作りにかかわる農耕具などはいち早く伝わりましたが、お墓の形やマツリなどの風習は受け入れませんでした。東北地方に暮らす縄文人の末裔(まつえい)たちは、祖先から受け継いだ生活様式を大切にし、新しい文化の必要なところだけを吸収したと言ったほうがよいかもしれません。
山王遺跡の水田跡
ここで私たちの住む多賀城に目を向けてみましょう。弥生時代の多賀城にはどのような風景が広がっていたのでしょうか。この時代の住居や墓地はまだ発見されていませんが、山王(さんのう)遺跡(第二中学校の東側一帯)の調査では、地表から3メートル以上の深さで弥生時代中頃(約2,100年前)の水田跡が見つかりました。そこでは、足跡も見つかり、ぬかるんだ田んぼで農作業をしていた様子がうかがえます。その後、山王遺跡の水田は大規模な洪水にみまわれ、大量の土砂に覆われて埋没しました。当時は、自然環境の変化から洪水などの災害が多発していたと考えられることから、弥生時代の後半は米作りには大変厳しい環境であったことが推測されます。
桝形囲(ますがたがこい)貝塚の籾痕土器
一方、沿岸部の大代(おおしろ)地区には、考古学史に残る「桝形囲(ますがたがこい)貝塚」があります。今から約100年前、ここから出土した土器は、土器の底部に稲籾(いねもみ)の圧痕が確認されたことから、水田稲作が行われていた弥生時代の土器であることがわかりました。この発見によって、東北地方にも弥生文化が伝わり、米作りを行っていたことが証明されました。また、ここではカキを採ったり、塩づくりもしていたようです。
弥生時代の多賀城の歴史は、いまだ地下深くに眠っており、歴史を紐解く情報は無限に埋蔵されています。
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