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更新日:2015年6月11日

中世

平安時代末頃から鎌倉・南北朝・室町・安土桃山時代をとおして、「中世」と呼んでいます。源平の合戦を経て12世紀末には鎌倉幕府が開かれ、武士が政治や経済の担い手となりました。その後16世紀後半の戦国の争乱が終わるまでの約400年間が中世です。この時代には激しい戦乱が続きましたが、同時に田畑の開発や商業活動が盛んになり、地域間の活発な交流もみられました。

奈良・平安時代に陸奥国府が置かれた多賀城は、発掘調査の結果から11世紀前半頃には国府としての主要な役割を終えたと考えられています。しかし、その後に書かれた中世の記録には、しばしば「多賀国府」という名が登場します。それでは、中世の「多賀国府」はどこにあったのでしょうか。現在では、仙台市宮城野区岩切から本市の西部にかけての地域が、その有力候補地に挙げられています。この地域には、中世の遺跡が密集することが長年の発掘調査から明らかになっています。また、「奥大道(おくだいどう)」という鎌倉からの幹線道路と、海につながる水上交通の幹線である七北田川が交差する水陸交通の要衝であり、町場や宿場、市場としても発展していたと考えられます。

中世の国府地域の一角を占めると推定される本市西部地域に所在する新田(にいだ)遺跡、山王(さんのう)遺跡、大日南(だいにちみなみ)遺跡からは、建物などを大小の溝で方形に囲んだ武士の屋敷が多数発見されています。特に新田遺跡では、12世紀から16世紀後半にかけて、屋敷の変遷がみられます。このうち、15世紀の様子は周囲に大溝を巡らし、内部をさらに溝で区画して屋敷を形成しています。各屋敷にはそれぞれ主屋や倉庫、井戸などが設けられ、個別の屋敷として機能していたとみられます。なお、これらの屋敷群については、鎌倉時代の陸奥国府留守所(るすどころ)長官の子孫であり、代々この地を治めた「留守(るす)氏」に関わるものと考えられています。

1新田遺跡の屋敷跡(右はじが大溝)

1.新田遺跡の屋敷跡(右はじが大溝)

 

2新田遺跡の屋敷跡(重複する建物)

2.新田遺跡の屋敷跡(重複する建物)

 

3新田遺跡出土遺物(杓子)

3.新田遺跡出土遺物(杓子)

 

4大日南遺跡の屋敷跡(建物を囲む溝)

4.大日南遺跡の屋敷跡(建物を囲む溝)

一方、本市の中央部付近には、国府に勤めていた役人出身の家柄で、本市八幡地区を中心に仙台市中野から蒲生(がもう)に至る地域を治めていた「八幡(やわた)氏」に関連するとみられる遺跡が所在します。八幡氏が居館としていた八幡館跡(やわたたてあと)では、中世後半頃と推定される館(やかた)を囲む空堀(からぼり)や、土橋(どばし)と呼ばれる通路施設が発見されています。また、宮内地区に所在する八幡沖(やわたおき)遺跡からは、八幡氏ゆかりの八幡(はちまん)神社に関連するとみられる15世紀から17世紀末頃の大規模な区画溝が発見されています。

このほか、中央地区には桜井館跡(さくらいたてあと)が所在します。調査の結果、詳細な時期は不明ながら、中世城館の構成施設である土塁(どるい)、空堀(からぼり)、平場(ひらば)が良好な状況で発見されました。

5八幡館跡(上部中央が館中心部)

5.八幡館跡(上部中央が館中心部)

 

6八幡館跡(石積みの土橋)

6.八幡館跡(石積みの土橋)

 

八幡沖遺跡(区画溝)

7.八幡沖遺跡(区画溝)

 

8桜井館跡(航空写真)

8.桜井館跡(航空写真)

これら中世の遺跡の出土遺物には、中国産の陶磁器、常滑窯(とこなめよう)や瀬戸窯(せとよう)をはじめとする国内産の無釉(むゆう)・施釉(せゆう)陶器、「かわらけ」などの陶器・土器類のほか、木製・石製・金属製の道具類など様々なものがあります。さらに用途で分けると、食事用具や貯蔵・調理具、茶の湯の道具、遊戯具、装いの道具、はきもの、文房具、暖房具、工具、武具、馬具、仏具、まじないの道具など多種多様にわたります。

お問い合わせ

埋蔵文化財調査センター  

宮城県多賀城市中央二丁目27番1号

電話番号:022-368-0134

ファクス:022-352-6548

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