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更新日:2017年8月6日

近世

本市では、多賀城の時代(奈良・平安時代)の遺跡が注目されますが、仙台藩の領域に組み込まれた江戸時代の発掘調査も数多く行っています。

多賀城跡作貫(さっかん)地区や、山王(さんのう)・高崎(たかさき)・留ヶ谷(とめがや)遺跡などで屋敷が発見されており、作貫地区では「鹽竃(しおがま)神社神官」、山王遺跡では「鹽竃一宮の御神酒屋」の屋敷を確認しました。

一方、大日北(だいにちきた)遺跡では大規模な墓域を発見しています。

鹽竃神社神官の屋敷(多賀城跡作貫地区)

中世の土塁や空堀を利用した屋敷が発見されています。屋敷北西にある祠(ほこら)に納められていた棟札や、北側100メートルの位置にある墓地の調査により、「鹽竃神社神官」であった志賀家の屋敷として、江戸時代の早い段階から代々使われていたことが明らかとなっています。

武士クラスの屋敷(留ヶ谷遺跡)

中世の土塁や堀を大規模に改修して造られた屋敷を発見しました。屋敷には5時期の変遷(第1期から第5期)があり、このうち第3期で発見された建物は一辺1メートル、深さ1.2メートルにも及ぶ大規模な柱穴を持っていました。第1期の遺構から出土した金メッキの煙管(きせる)と併せて、武士クラスの屋敷と考えています。

屋敷全景

屋敷全景

 

下段平場漆器ほか出土状況

下段平場漆器ほか出土状況

弥勒坂の屋敷(高崎遺跡弥勒地区)

高崎遺跡弥(みろく)勒地区では、8棟以上の建物をはじめ、材木塀や土壙、溝、地鎮(じちん)遺構が発見され、18世紀頃の陶磁器やかわらけが出土しています。このうち、地鎮遺構は、建物の北西隅に近接して設けられており、浅く掘り窪めた穴の中に、かわらけ10枚と寛永通宝7枚が埋納されていました。かわらけには輪宝が墨書されているものがあり、建物を建てる際に地鎮のまじないが執り行われたものと考えられます。出土した陶磁器や寛永通宝の年代から、この屋敷は18世紀以降のものであり、安永(あんえい)3年(1774年)に記された「風土記御用書出」に見られる「弥勒屋敷」との関わりが想定されます。

地鎮遺構

地鎮遺構

鹽竃一宮の御神酒屋(山王遺跡西町浦地区)

山王遺跡では、塩竃街道沿いに建ち並んでいた屋敷の一部が多数確認されており、屋敷を区画する大規模な堀や掘立柱建物、井戸などが発見されています。このうち、寛永(かんえい)三年(1750年)から宝暦(ほうれき)九年(1759年)の間に鹽竃一宮の御神酒屋(おみきや)であった賀川家の敷地内の調査(西町浦地区)では、屋敷の南辺・東辺を区画する大規模な堀と井戸が発見され、18・19世紀頃の多量の陶磁器のほか、漆器や下駄などの木製品が出土しました。堀から出土した木札には、「天保十一年」(1840年)や「しろ酒可支」と記されたものがあり、御神酒屋であったことを裏付ける資料として貴重な発見となりました。

屋敷南辺を区画する堀

屋敷南辺を区画する堀

豪農クラスの墓地(大日北遺跡)

江戸時代初めから中頃(17世紀から18世紀)の墓を70基発見しました。埋納された副葬品には多数の古銭や和鏡、煙管、漆器椀、横櫛などがあり、豪農クラスの墓地であったと推測しています。また、副葬品の出土状況から、生前死者が使用していたものは棺桶(かんおけ)の中に、葬送儀礼で使用したものは棺桶の外に埋納していた状況が分かりました。

墓地全景(東から撮影)

墓地全景(東から撮影)

 

棺桶内部の様子

棺桶内部の様子

 

埋納された品々(1号墓)

埋納された品々(1号墓)

お問い合わせ

埋蔵文化財調査センター  

宮城県多賀城市中央二丁目27番1号

電話番号:022-368-0134

ファクス:022-352-6548

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