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更新日:2015年6月11日

古代多賀城と古代都市の発見」

多賀城跡の南門のかたわらにある小さいお堂の中に、重要文化財である多賀城碑は立っています。

多賀城碑覆屋

多賀城碑覆屋

 

多賀城碑

多賀城碑

ここには、平城京や蝦夷国(えみしのくに)などから多賀城までの距離と、神亀(じんき)元年(724年)に大野東人(おおののあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字(てんぴょうほうじ)六年(762年)藤原恵美朝(ふじわらのえみのあさかり)が多賀城を修造したことが記されています。

このことを裏付けるように、多賀城の創建年代は、養老(ようろう)・神亀年間(717年から728年)と推定され、また8世紀中頃に大きく改修されたことが、半世紀以上にも及ぶ発掘調査によって次々と明らかになったのです。

発掘調査は、昭和35年にはじまりました。はじめに当時としては最先端技術を用いた航空写真測量による地形図作成を行っています。そして多賀城廃寺跡の調査を経て、当時「内城」と呼ばれていた多賀城政庁跡の調査を行ったのは昭和38年でした。

最初の多賀城跡の調査風景(東北歴史博物館提供)

最初の多賀城跡の調査風景
(東北歴史博物館提供)

その結果明らかになったのは、それまで対蝦夷の軍事施設と考えられていた多賀城像を大きく覆すものでした。

発見されたのは正殿を中心にコの字型に配列された建物群とそれらを取り囲む築地塀(ついじべい)でした。

多賀城政庁復元模型(東北歴史博物館蔵)

多賀城政庁復元模型
(東北歴史博物館蔵)

こうした遺構は平城宮や全国各地で発見されていた国府にみられる朝堂院式と呼ばれるものでした。すなわち多賀城は単なる軍事施設ではなく、行政府であることが明らかになったのです。こうした成果により、それまで「内城」と呼ばれていた地区は陸奥国府の「政庁」であることがわかりました。その後の調査で、築地塀(ついじべい)と材木塀による外郭(がいかく)施設をもつことや、前述したような創建年代や大改修を経ていることなどが判明しました。

こうした調査成果は、一時は偽物と疑われた多賀城碑を再評価させる契機をつくり、今では真作と考えられています。

このように多賀城の中については、発掘調査が進められていましたが、一方城外については、文献記録に「城外」の記載がわずかにみられる程度でその実態はしばらくわかっていませんでした。

昭和55年に行われた調査では、方向を一定にそろえた建物や道路、運河などが発見され、城外に計画的な地割があった可能性が初めて考えられました。その後、平成元年から始まった三陸自動車道の調査では、多賀城政庁中軸線や南辺築地に平行する道路が発見され、およそ一町(約109メートル)四方で区画された方格地割が想定されるに至ります。

多賀城城外の方格地割

多賀城城外の方格地割

そして平成9年から始まった城南地区の土地区画整理事業に伴う調査で、南北・東西の両大路、河川や橋などが次々と発見され、その整然としたまち並みの姿が我々の目の前に現れたのです。

多賀城のまち並み想定図(イラスト早川和子)

多賀城のまち並み想定図(イラスト:早川和子)

こうした調査の結果、城外のまち並みは、多賀城南面から西の山王地区までの広い範囲に及んでおり、8世紀の終わり頃から整備されはじめ、多賀城が廃れるとまち並みもあわせて使われなくなったと推定されます。

発掘調査は、今も継続して続けられています。そのたびに新しい発見を我々の前に見せてくれる多賀城およびその周辺の遺跡群は、まさに地下に眠る歴史の宝庫といえます。

お問い合わせ

埋蔵文化財調査センター  

宮城県多賀城市中央二丁目27番1号

電話番号:022-368-0134

ファクス:022-352-6548

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