日本史のなかの多賀城

奈良時代に設置されて以来、多賀城は東北の政治・文化・軍事の中心地、「北の都」として賑わいました。後に歴史の中へ消えてゆきましたが、大伴家持をはじめ、源頼朝や松尾芭蕉など教科書に載っているような歴史上の重要人物が多数訪れ、足跡を残しています。

  1. 古代日本における「北の都」

    多賀城は、奈良・平安時代に陸奥国(むつのくに)の国府が置かれたところで、奈良時代には鎮守府(ちんじゅふ)も併せ置かれました。神亀元年(724年)、大野東人(おおののあずまひと)によって創建され、11世紀の中頃に終焉を迎えるまで、古代東北の政治・文化・軍事の中心地としての役割を果たしました。
    規模は、約900メートル四方で、周囲は築地塀(ついじべい)で囲まれ、南・東・西に門が開いていました。ほぼ中央には、儀式などを行う政庁(せいちょう)があり、発掘調査によって奈良・平安時代を通じて4時期の変遷があることがわかっています。城内には、政庁のほか、実務を行う役所や工房、兵士の宿舎などが置かれていました。

    多賀城の周辺地域からは、古代日本における「北の都」であったことを示す痕跡(遺跡)が見つかっています。その一つが多賀城廃寺跡です。東に塔、西に東面する金堂があり、その北には講堂が置かれ、中門から延びた築地塀が塔と金堂を取り囲み講堂に取り付くという伽藍(がらん)配置は、大宰府付属の観世音寺(かんぜおんじ)と共通しています。多賀城と同時期に創建された多賀城の付属寺院跡と考えられています。
    多賀城跡の南東200メートルの館前遺跡では、多賀城の政庁正殿に匹敵する規模の主屋を中心に、6棟の建物が発見されました。年代は9世紀ころで、多賀城に赴任してきた国司の邸宅か、あるいは多賀城に関わる重要な施設ではないかと考えられています。

    また、多賀城跡から南東へ約4キロメートルの大代地区にある柏木遺跡では、製鉄炉や木炭窯、工房跡など、製鉄を行った跡が良好な状態でまとまって発見されました。年代は、出土した遺物などから8世紀前半とわかり、多賀城直営の製鉄所跡ではないかと考えられます。

    そしてさらに、多賀城跡の西方約1キロメートルの山王遺跡千刈田地区では、大規模な建物跡や高級な陶磁器などが発見されました。中でも「右大臣殿 餞馬収文(うだいじんどの せんばしゅうもん)」と書かれた題箋軸木簡(だいせんじくもっかん)が出土したことで、この場所が10世紀前半頃の陸奥守(むつのかみ)の邸宅跡であることがわかっています。9世紀には、南北・東西の大路を軸とした約100メートルごとの小路がつくられ、碁盤目状の街並みが形成され、上級官人の邸宅以外にも、さまざまな仕事に従事する人々の住居が立ち並んでいたと考えられています。

    「北の都」として賑わいを見せたに違いない多賀城ですが、平安時代の中頃を過ぎると正史上にその名を確認できなくなり、やがて「多賀国府」の名が現れるようになります。例えば、鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡』には、文治5年(1189年)、奥州藤原氏を攻め滅ぼした源頼朝が多賀国府に立ち寄り戦後の処理を命じたことが記されています。その後、南北朝時代には北畠顕家ら南朝方の拠点として名をとどめますが、徐々に荒廃し、歴史の中に埋もれてしまったのでした

    詳しくはこちら(多賀城市の文化財ホームページ)

  2. はるかなる歴史への扉
    -多賀城碑(壺碑)-

    平城京や各国からの距離、大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)による神亀元年(724年)の多賀城の設置、藤原朝臣朝狩(ふじわらのあそんあさかり)による天平宝字6年(762年)の改修など、多賀城と古代日本・東北の解明にとって重要な史料といえる多賀城碑(壺碑)の碑文は、はるかなる歴史の扉を開く鍵の一つです。碑はかつての多賀城の正門にあたる南門から城内に入ってすぐの場所に建っています。江戸時代のはじめ頃に発見されたと伝えられる碑はすぐに歌枕「壺碑」と見なされ、それが碑の存在を有名にし、後に松尾芭蕉をはじめ多くの文人が訪れることとなりました。ちなみに水戸黄門の名で知られる徳川光圀も『大日本史』編纂のために家臣を多賀城へ派遣し、碑を調査させています。

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  3. 日本史のなかの多賀城

    多賀城の日本史への登場は奈良時代のこと。天平9年(737年)に「多賀柵」として初めて『続日本紀』にその名が見られます。宝亀11年(780年)には「多賀城」と記されましたが、その後、平安時代の中頃を過ぎると正史上にその名を確認できなくなり、やがて「多賀国府」の名が現れるようになります。そして、南北朝時代には北畠顕家ら南朝方の拠点として名をとどめますが、徐々に荒廃し、歴史の中に埋もれてしまいます。

    かつては国府や鎮守府が置かれ、東北地方の政治・軍事の中心であった「北の都」。また、平城京や平安京から赴任した人々が、美しい自然や名所・旧跡を歌に詠み、「歌枕」となるなど、多賀城は都人の憧れの場所でもありました。そうした背景から日本史や古典の教科書に載っているような〝有名人〟も多数訪れ、足跡を残しています。

    ■多賀城に関係する人物たち
    大野東人(おおののあずまひと)
    藤原朝狩(ふじわらのあさかり)
    大伴家持(おおとものやかもち)
    坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
    源融(みなもとのとおる)
    藤原実方(ふじわらのさねかた)
    源義家(みなもとのよしいえ)
    源頼朝(みなもとのよりとも)
    西行(さいぎょう)
    北畠顕家(きたばたけあきいえ)
    松尾芭蕉(まつおばしょう)

    大正11年(1922年)、多賀城廃寺跡とともに「多賀城跡附寺跡」として国の史跡に指定された多賀城跡は、昭和41年(1966年)には特別史跡に昇格しました。その後も、館前遺跡(昭和55年)、柏木遺跡(平成2年)、山王遺跡千刈田地区(平成5年)が次々と特別史跡に追加指定されました。多賀城跡をはじめとする文化財は地域の宝物であるばかりでなく、国レベルの貴重な文化遺産です。現在も宮城県多賀城跡調査研究所や多賀城市教育委員会などが継続的に発掘調査を行い、多賀城の全容の解明に取り組んでいます。

    詳しくはこちら(多賀城市の文化財ホームページ)

    多賀城市内の「歌枕」についてはこちら

  4. 未来へ
    -歴史の絆とともに-

    奈良時代、都である平城京を中心に、西には大宰府、東には多賀城が置かれました。この3都市があって古代国家が形づくられていたと言っても過言ではなく、ともに国を守るために緊密に結ばれていました。多賀城と大宰府には、朝廷の出先機関として都から多くの官人が往来し、中でも万葉歌人であった大伴旅人は、息子家持を伴って大宰府に赴任し、多くの歌を残しました。その後、同じく万葉歌人として活躍した家持は、鎮守府将軍として多賀城に赴任し、晩年を多賀城で過ごしたという経緯もあり、ともに万葉文化の花開いた土地という共通点もありました。

    このように歴史的に縁が深い3都市の関係から、多賀城市では太宰府市と平成17年(2005年)に、奈良市とは「平城遷都1300年」を迎える平成22年(2010年)に友好都市を締結しました。また、山形県天童市一帯から家臣たちと現在の多賀城市八幡地区へと移り住んだ天童氏の縁から、平成18年(2006年)に天童市と友好都市を締結しました。友好都市の間では、市民の相互交流や文化芸術、産業、観光、教育、スポーツなどさまざまな分野での交流を行ってきましたが、とりわけ、東日本大震災で甚大な被害を受けた際には、市民・各団体の方々から物心両面にわたって大きな支援をいただきました。

    平成27年、多賀城市と太宰府市は友好都市10周年を迎えました。両市ではこれを記念して、未来を担う子どもたちを親善使節団としてそれぞれに派遣して交流を深めました。〝歴史の絆〟は、市民、とりわけ未来を担う子どもたちに伝えたい、大切な地域の宝物なのです。多賀城市では、子どもたちの健全な育成とともに、市の大きな財産である文化財、歴史の絆が受け継がれ、市民が歴史と文化に誇りをもてるまちを目指して、さまざまな事業に取り組んでいます。

    奈良市・太宰府市・天童市との友好都市締結

    天童市と本市のかかわりは、戦国時代にはじまります。
    200年にもわたって天童一円を治めてた天童氏の第10代頼久が、1584年に最上義光との合戦に敗れ、母方の実家であった国分氏を頼り、家臣たちと現在の多賀城市八幡地区へと移り住みました。その後、天童氏は伊達政宗に厚遇され、多賀城一帯で最大の家臣になりました。現在も、天童氏や家臣の子孫の方々がこの地域に数多く暮らしています。このような歴史的背景から、これまでにも度々市民の相互訪問が行われたことから、平成18年(2006年)に友好都市の関係を結びました。

    詳しくはこちら(多賀城市ホ一ムページ「友好都市」)

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