万葉歌人 大伴家持 ~多賀城へのいざない~

青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

(万葉集巻三 328 小野老)

~ならの都は、咲き盛る花のように、その繫栄振りは見事なものです。~

この歌は、大和朝廷が置かれた奈良の都の繁栄ぶりを詠ったものとしてよく知られています。歌人は小野老。国府大宰府で長官をしていた大伴旅人の部下でもありました。旅人は大伴家持の父で、家持同様、万葉集を代表する歌人です。洒脱で感情表現豊かな歌には宴席歌が多く、とりわけ「酒を讃むる歌」13首は有名です。

生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は 楽しくをあらな

(万葉集巻三 350 大伴旅人)

~命ある者は、いずれ死にゆくものだから、この世は楽しくありたい。~

父旅人、そして小野老や山上憶良など、そうそうたる万葉歌人とともに、家持の少年時代は歌に囲まれて育ったのでしょうね。

さて、ときの大和朝廷は、東北地方を納める拠点として、多賀城に陸奥国府と鎮守府を置きました。多賀城は、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれた国府大宰府と同様、都との往来はもとより、各地との交流が盛んに行われ、政治・経済だけでなく、優れた人材や文化が集まる、東北一円の文化拠点都市であったにちがいありません。

その多賀城に、万葉の歌人 大伴家持が赴任してきます。天応2年(782年)65歳の年です。万葉集の編纂にも深く関わったとされる大伴家持が滞在した多賀城。悠久の歴史流れる「史都 多賀城」で、大伴家持を偲びながら万葉集の世界に迫ります。

都や地方の諸官を歴任し、その赴任先で多くの歌を残した大伴家持ですが、宝字3年(759年)42歳で詠んだ歌を最後に、68歳でその生涯を終えるまで、家持が詠ったとされる歌は残っていません。

新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重吉事

(万葉集巻二十 4516)

~年の初めの初春の今日降る雪のように、次々重なれ、良き事よ。~

この歌は、家持が最後に詠んだとされる歌で、しかも全20巻にわたる万葉集の最後を飾ります。
万葉集に掲載されている家持の歌は、この歌も含めて全部で473首。ほかのどの歌人よりも多く収められています。

振り放けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引 思ほゆるかも

(万葉集巻六 994)

~空を仰いで三日月を見たら、一目見たあのひとの眉が思い出されたよ。~

万葉の人々にとって、月は特別な存在でした。通い婚が普通だった当時、大切な人に逢えるのは月夜だけ。大切な人のもとへ急ぐにも街灯などない夜道は、月明かりだけがたよりだったのです。万葉集には、月にまつわる恋の歌がよく登場します。この歌は、若き日の家持、15歳のときに読んだ歌とされています。

天平18年(746年)29歳の年、家持は越中国守に任命されました。帰京するまでの5年間を越中国で過ごし、数多くの歌をつくりました。万葉集に掲載されている家持の歌、全473首のうち、220首がこの越中で詠まれたものだそうです。

撫子が 花見る毎に をとめらが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも

(万葉集巻十八 4114)

~なでしこの花をみるたびに、あのひとの笑顔の美しさを思い起こします。~

これは、勝宝元年(749年)家持32歳の年に詠った歌です。「あのひと」とは、都に残してきた家持の奥様。家持は都にいる妻を思って、自分の家の庭になでしこの種を蒔いていました。大切な人を思う人の心はいつも変らないのですね。メールも電話も、郵便もない時代、歌は想いを伝えるとても大切な手段だったのです。もともと、万葉の歌は声に出して詠うようにつくられたもの。家持の詠う声が聞こえてきそうです。

越中から都に戻った家持は、勝宝5年(753年)36歳のときに「春愁三首」といわれる歌を詠みました。この3首は絶唱歌として家持の代表作ともされています。

春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鴬鳴くも

(万葉集巻十九 4290)

~春の野原に霞がたなびいて、なんとなく悲しい気持になることよ。折りしも夕暮れの淡い光の中でうぐいすが鳴いている。~

我が屋戸の いささ 群竹ふく風の 音のかそけき この夕へかも

(万葉集巻十九 4291)

~(春の宵の静けさの中で)我が家の、ひと群れの竹の茂みに吹く風の音が、かすかに聞こえるこの夕暮れであることよ。~

うらうらに 照れる春日に ひばりあがり 心悲しも 独りし思へば

(万葉集巻十九 4292)

~のどかで明るい春の日差しの中をひばりがさえずりながら舞い上がっていく。一人物思いにふけっていると、物寂しく感じることよ。~

家持の心の動きが、自然の事象や事物に託して表現されています。「我が屋戸の いささ 群竹ふく風の――」の歌ですが、家の中にいる家持は風でゆれる笹を見てなかったはず。でも、笹の葉擦れのかすかなオトだけをたよりに、春の風が吹いていることを感じ取ったのですね。

さて、万葉集には、さまざまな身分の人の歌が幅広く掲載されていますが、その中には、防人や、その家族の歌が100首近く収録されています。それらのほとんどは家持が収集したのだそうです。大切な家族のもとを急に離れ、遥か遠い九州まで移動しなければならなくなった本人のやりきれない思いや悲しみにくれる気持、また、家に残さざるを得なかった妻や子への深い愛情が詠まれています。

韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして

(万葉集巻二十 4401)

~着物の裾にすがりついて泣く子供たちを置いて来てしまった。母親もいないのに。~

素朴でありのままの心情が詠われた防人歌に心を打たれた家持は、防人への深い思いを寄せた歌を詠んでいます。

今替る 新防人(にひさきもり)が 船出する 海原の上に 波なさきそね

(万葉集20巻4335)

~今からでかけていく新防人を、海原よ、波頭を立てないでやってくれ。~

このように、家持は、自然のオトに耳を傾けたり、四季折々の自然の営みに目を向けるばかりでなく、泣いたり、思い悩んだり、笑ったり、恋をしたり、そんな人間の感情に思いを寄せ、数多くの歌を詠いました。自分自身の心の動きを、自然界の事物、事象に託し、それを万(よろづ)の言の葉によって表現した家持の歌に、あなたのココロが動かされたら、きっとそれは人生を豊かにする歌との出会いかもしれません。

さて、大伴家持ですが、65歳で赴任した多賀城が最後の赴任地となりました。この地多賀城が終焉の地ともされています。残念なことですが、多賀城で読んだとされる家持の歌は残っていません。

この雪の 消残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む

(万葉集巻十九4226)

~この雪がまだ消え残っている間に、さあ行きましょう、山橘の真っ赤な実が照り生える雪の美しさを見に行きましょうよ。~

この歌は、家持33歳のときに越中で詠んだ歌です。季節の彩を好んで歌にし、歌とともに生きた家持の心に触れることのできる一首です。

家持の多賀城に残した歌はないけれど、冬の降る雪の多賀城にも、やぶこうじは真っ赤な美しい実をつけます。
国府多賀城が置かれた陸奥国は、その風光明媚な景勝から都人の憧れの地とされました。1,300年のときは経れども変わらず残る自然の営みと人の心の機微。この地多賀城で、家持がどんな自然の営みに目を見張り、耳を傾け、人々の情に触れたのか、「家持の心のうた」を探しに、多賀城にいらしてみませんか。

JR仙石線多賀城駅から徒歩5分ほど歩くと瓦屋根のとても大きな建物が目に付きます。この多賀城市文化センターの中庭には、大伴家持が多賀城に赴任したことを追慕するための歌碑が立てられ、家持自身の歌が刻まれています。

大伴の 遠つ神祖の 奥つ城は 著く標立て 人の知るべく

(万葉集巻十八4096)

~大伴の遠い祖先の墓所は、はっきりと標を立てなさい。人々がそれとわかるように。~

多賀城政庁跡や多賀城廃寺跡などの史跡を巡ると、政庁跡で見る夜明けや夕暮れ、星空の美しさ、道端に咲く花、さえずる鳥の声、風のそよぎ、草や木々の香りなど、今もこの地に息づく自然の生態は、遥かな時を超えてもなお家持の見た風景とあまり変わっていないはずです。季節の移ろい、好きな人や大切な人のことを思い出させるような何か、あなたの心が動く何かに出会ったら、 それはきっと家持も心惹かれたにちがいありません。

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