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更新日:2020年9月7日
多賀城跡は、仙台平野を一望できる松島丘陵の先端、多賀城市市川、浮島に所在します。
江戸時代初め、多賀城碑の発見により遣跡が多賀城跡であることが判明して以来、多くの学者によって研究され、その重要性が知られてきました。また、地元住民による保護や、保存状態が良好であったことなどから、大正11年多賀城廃寺跡とともに国の史跡に指定されました。さらに、昭和35年から始まった発掘調査により、それまで軍事基地としてのみ捉えられていた多賀城の性格が大きく見直されることとなりました。こうした成果をうけ、昭和41年には特別史跡に指定され、その後、館前遺跡、柏木遺跡、山王遺跡千刈田地区が追加指定されています。
年月日 |
指定 |
名称 |
---|---|---|
大正11年10月12日 |
史跡指定 |
多賀城跡、多賀城廃寺跡 |
昭和40年4月17日 |
追加指定 |
多賀城廃寺跡 |
昭和41年4月11日 |
特別史跡指定 |
全地域 |
昭和49年2月18日 |
追加指定 |
多賀城跡、多賀城廃寺跡 |
昭和53年11月21日 |
追加指定 |
多賀城廃寺跡 |
昭和55年3月24日 |
追加指定 |
館前遺跡 |
昭和59年3月27日 |
追加指定 |
多賀城跡南面地域 |
平成2年6月28日 |
追加指定 |
柏木遺跡 |
平成5年9月22日 |
追加指定 |
山王遺跡千刈田地区 |
多賀城は、奈良・平安時代に陸奥国(むつのくに)の国府が置かれたところで、奈良時代には鎮守府(ちんじゅふ)も併せ置かれました。神亀元年(724)、大野東人(おおののあずまひと)によって創建され、11世紀の中頃に終焉を迎えるまで、古代東北の政治・文化・軍事の中心地としての役割を果たしました。
規模は、約900メートル四方で、周囲は築地塀(ついじべい)で囲まれ、南・東・西に門が開いていました。ほぼ中央には、儀式などを行う政庁(せいちょう)があり、4時期の変遷があることがわかっています。さらに城内の城前・作貫(さっかん)・大畑・六月坂・金堀・五万崎の各地区には、実務を行う役所や工房、兵士の宿舎などが置かれていました。
多賀城と同時期に創建された多賀城の付属寺院跡で、多賀城跡の南東約1.2キロメートルの高崎地区にあります。東に塔、西に東面する金堂があり、その北には講堂が置かれ、中門から延びた築地塀が塔と金堂を取り囲み講堂に取り付くという伽藍(がらん)配置は、大宰府付属の観世音寺(かんぜおんじ)と共通しています。寺の名称は伝わっていませんが、山王遺跡から「観音寺」と書かれた土器が発見されており、寺名の可能性が高いと考えられています。
多賀城跡とともに大正11年に史跡、昭和41年に特別史跡に指定され、これを記念して多賀城町(当時)は、廃寺跡を史跡公園として整備しました。このような史跡整備は、大阪府枚方市にある百済寺跡(くだらでらあと)に次いで全国で2番目に早く、東日本では初めての試みでした。
多賀城跡の南東200メートルの台地上から、多賀城の政庁正殿に匹敵する規模の主屋を中心に、6棟の建物が発見されました。年代は9世紀ころで、多賀城に赴任してきた国司の邸宅か、あるいは多賀城に関わる重要な施設ではないかと考えられ、昭和55年に特別史跡に追加指定されました。
館前遺跡復元模型
多賀城跡から南東に約4キロメートルの大代地区にある遺跡です。丘陵の南斜面から製鉄炉、木炭窯、工房跡など、製鉄を行った跡が良好な状態でまとまって発見されました。年代は、出土した遺物などから8世紀前半とわかり、多賀城直営の製鉄所跡ではないかと考えられ、平成2年に特別史跡に追加指定されました。
多賀城跡の西方約1キロメートル、東西大路沿いに位置しており、大規模な建物跡や高級な陶磁器などが発見されました。中でも「右大臣殿 餞馬収文(うだいじんどの せんばしゅうもん)」と書かれた題箋軸木簡(だいせんじくもっかん)が出土したことで、この場所が10世紀前半頃の陸奥守(むつのかみ)の邸宅跡であることがわかりました。地方の役所で、国の長官の邸宅が明らかになったのは全国で初めてであったことから、平成5年、特別史跡に追加指定されました。
特別史跡多賀城跡附寺跡や重要文化財多賀城碑など市内の史跡をボランティアの方々がご案内いたします。
詳しくは、多賀城市観光協会ホームページ(外部サイトへリンク)をご覧ください。
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