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更新日:2022年1月11日

歴史の風 貞山運河編

「広報多賀城」でご紹介している「歴史の風」を転載しています。

歴史を通して発信される多賀城市の魅力をご紹介します。

貞山運河と砂押川(七北田川)

大正4年発行の地図に描かれた旧流路

現在の砂押川は市の北西部から東へ流れ、貞山運河に合流しています。このような流路になったのは、御舟入堀(おふないりぼり)が完成した寛文(かんぶん)13年(1673年)のことで、それ以前は、湊浜(みなとはま)(七ケ浜町)から太平洋に直接注いでいたと言われています。

安永(あんえい)3年(1774年)の宮城郡蒲生(がもう)村風土記御用書出には、蒲生村の肝入(きもいり)を務めた小野源蔵が、慶長(けいちょう)年間(1596年~1615年)七北田(ななきた)川の流路を蒲生へと流れるように開削し、その功績により伊達政宗から具足(ぐそく)と兜(かぶと)を拝領し、苗字(みょうじ)・帯刀(たいとう)を許されたと記されています。このことを裏付けるように正保(しょうほう)年間(1644年~1648年)に描かれた国絵図(くにえず)には、蒲生へと流れる七北田川が描かれています。

また、同じく宮城郡湊浜風土記御用書出には、昔、市川(砂押川)が多賀城より湊浜へ流れていた頃には、商人船の往来があったが、寛文10年(1670年)、岩切川(七北田川)の流路を蒲生へとつけかえたことで、かつての川筋は田や沼などになったと記されています。

これらのことを整理すると、次のようになります。

  1. 江戸時代初期以前は、七北田川の主流は新田(にいだ)から八幡(やわた)を通り湊浜へと流れていた。
  2. 慶長年間、小野源蔵が七北田川の流路を蒲生へと改修した。正保国絵図には蒲生へと流れる七北田川が描かれた。
  3. 慶長年間の改修工事で、すべての水が蒲生へと向かうようになったのではなく、一部は湊浜へも流れていた。寛文10年からの改修工事で完全に蒲生へ注ぐようになり、かつての川筋が田や沼になった。

七北田川の改修が行われた寛文10年は、後に貞山運河と呼ばれる御舟入堀と舟曳堀(ふなひきぼり)の開削が始まった年でもあります。これらの河川改修は、塩竈湾と仙台城下を結ぶ水上交通の整備を目指したものであり、仙台藩の財政基盤を支える重要な意味を持つものでした。

※今月号で貞山運河編は終了します。本市の貞山運河については、まだまだ不明な点が多く、古写真や資料等を探しております。情報がありましたら、文化財課文化財係までご連絡ください。

貞山運河の役割

貞山運河の役割 木材輸送の様子(昭和40年前後)

貞山運河建設の目的は、陸上輸送では難しかった大量の物資輸送を可能にすることにありました。

阿武隈川―名取川間の木曳(きびき)堀(ぼり)は、仙台城築城及び城下町建設にあたり、木材等輸送のため建設され、塩竈―蒲生間の御舟入(おふないり)堀(ぼり)については、仙台領北部の穀倉地帯から米を仙台城下へ輸送するために掘削されたものでした。特に、御舟入堀が建設されたことにより、松島湾から外洋へ出る必要がなくなったことから、仙台城下まで安全な物資輸送が可能になりました。さらに、仙台城下への物資輸送中継地として七北田川河口に蒲生(がもう)御蔵(おくら)が置かれ、大代村には米穀の出入りを監視する「御石改所(おんこくあらためじょ)」が置かれるなど、運河と密接に関わりをもつ地域も現れました。

御舟入堀の建設により、塩竈に物資が荷揚げされなくなったことから、貞享(じょうきょう)2年(1685年)、米以外の荷物は塩竈で水揚げをさせるという法令が発せられ、御舟入堀は米中心の輸送路として、幕末までその役割を果たすこととなりました。
明治9年(1876年)、明治天皇の東北巡行に同行した内務卿大久保利通は、東北開発を明治政府の一大プロジェクトと位置づけ、日本最初の近代港湾建設構想を立ち上げます。そして、開発の拠点となる港湾の適地として野蒜(のびる)(東松島市)を選び、明治11年(1878年)、野蒜築港事業が開始されました。この事業は台風等の被害により頓挫しますが、東名・北上運河の建設は進められ、北上川―北上運河―東名運河―松島湾―御舟入堀―新堀―木曳堀―阿武隈川と繋がる、岩手県から福島県までの舟運路が完成します。

明治20年(1887年)12月、日本鉄道会社奥州線「上野―仙台―塩釜」間が開通し、物資輸送は運河を利用した舟運から鉄道へと移行するものの、「明治廿四年河港河川調書」によれば、貞山運河は、穀類・食塩・砂糖・木材・薪炭・魚類・石類・雑貨物などの輸送に利用されていたことがわかります。また、多賀城海軍工廠への輸送確保、荷役力増強の一躍を担うものとして位置付けられ、昭和18年(1943年)4月から県営工事として改修が計画されるなど、近代まで主要輸送路として、重要な役割を果たしました。

運河の石積護岸

運河の石積護岸

砂押貞山運河および砂押川の合流地点、通称「中の島」と呼ばれる中州部分に石積護岸を見ることができます。そのほとんどは、目地にコンクリートが使用されているものですが、震災前には、コンクリートが使用されていない石積護岸が確認されています。

石積護岸についての歴史をみると、宮城県公文書館所蔵の明治21年(1888年)の「貞山堀改修出来形帳」に、石による護岸費を計上しています。このことから、明治11年(1878年)に始まる野蒜築港事業(のびるちくこうじぎょう)に伴う明治の改修の折、石積護岸を構築しているものと考えられます。

また、かつて、蒲生北閘門(がもうきたこうもん)付近にも昭和10年(1935年)に護岸されたという石積が残っていました。その石積は、平成20年に、仙台市教育委員会によって調査が実施されており、谷積みないし、綾積み状の石積護岸が確認され、目地にコンクリートが使用されていなかったことも判明しています。

これらのことから、昭和10年以前には目地にコンクリートが使用されていない護岸が存在したことがわかります。

一方、現在見ることのできるコンクリート目地の谷積み護岸はいつ造られたものでしょうか。それを示す資料はいまだ発見されていません。

しかし、谷積みの護岸は、蒲生北閘門の調査でも分かるように、昭和10年以前に貞山運河で採用され、その護岸は後の時代、他の地点にも受け継がれています。

石積護岸は、日本の近代化の中で採用された土木構築物であり、日本の近代化を示す遺構として、現在まで引き継がれた貴重な景観ということが言えるでしょう。

貞山運河と仙台港

貞山運河と仙台港の位置

明治18年(1885年)、野蒜築港事業が頓挫すると、物資輸送は鉄道へと移行していきますが、貞山運河を利用した水運はその後も続いていたことを、宮城県庁文書から知ることができます。

昭和15年(1940年)、内務省仙台土木事務所長金森誠之が「仙塩地方開発総合計画について」を発表し、仙台市苦竹から新田にかけて、旧舟曳堀の船だまりを浚渫して仙台内港とし、また塩釜港を外港として修築し、連絡水路を貞山運河とする計画を打ち出しました。

その後、アジア・太平洋戦争が勃発、激化していくと、昭和16年(1941年)に苦竹に東京第一陸軍造兵廠仙台製造所、昭和18年(1943年)に多賀城海軍工廠が建設され、仙塩地方開発総合計画は戦時色を濃くしていきます。その結果、貞山運河は、多賀城海軍工廠への輸送確保、荷役力増強の一躍を担うものとして位置付けられ、昭和18年4月から県営工事として、運河水深を3メートル、幅を50メートルに拡幅するという事業が3カ年継続で行われることとなりました。しかし、戦局の悪化により、事業は用地の買収と一部の浚渫にとどまり、運河の拡幅は実施されなかったようです。

この計画は、戦後、陽の目をみることはありませんでしたが、昭和32年(1957年)に仙塩特定地域開発計画が策定されると、これを機に産業基盤整備のための大型港湾整備の必要性を説く議論が出てきます。昭和37年(1962年)には、宮城県により新産業都市仙台湾臨海地域開発計画が策定され、仙台市長浜に港を建設することが公表されました。これは、貞山運河を改修して塩釜港と有機的な連携を図るというもので、仙台港建設事業の原型をなすものでした。

その後、仙台港の建設計画が急ピッチで進められ、昭和39年(1964年)、仙台湾地域の新産業都市指定により仙台港建設が正式決定し、野蒜築港事業以来の新規大型港湾建設事業が着手されることとなりました。これにより、貞山運河は仙台港と接合され、昭和46年(1971年)、仙台港は開港しました。

このように、仙台港は貞山運河と密接に結びつけられながら計画が練られ、建設されたものでした。

野蒜築港事業と貞山運河

野蒜築港事業と貞山運河

政府直轄で行われた日本初の洋式港湾事業として野蒜築港(のびるちっこう)事業があります。この事業は、大久保利通が仙台湾に東北の要として港湾建設を考え、明治9年(1876年)の明治天皇の東北巡幸に先立ち、仙台湾岸を視察したことに始まります。大久保は、帰京後、内務省土木局長石井省一郎とオランダ人技術者ファン・ドールンに適地調査を行わせ明治10年(1877年)、ドールンが「野蒜築港計画書」を提出し、港湾建設に鳴瀬川河口の野蒜が選定されました。事業は、明治11年(1878年)、閘門(こうもん)建設と北上運河開削から開始され、閘門は石井省一郎にちなみ、「石井閘門(いしいこうもん)」と名付けられました。その後、新鳴瀬川の開削、鳴瀬川河口の突堤建設、市街地の造成、東名運河の開削が行われます。

この野蒜築港事業に連動して、宮城県は六大工事として、関山街道(せきやまかいどう)や貞山運河の改修等を展開します。このうち、貞山運河については、明治16年(1883年)、松島湾から阿武隈川までの御舟入堀、新堀、木曳堀を一連の運河として改修するため、大代に貞山堀出張所を開設し、干潮時の水路幅を16~25メートル、水深を1.5メートルにする工事が実施されました。この工事は、明治22年(1889年)には完成し、現在見ることができる運河景観ができあがりました。

東北南部の大動脈となるべき野蒜築港事業と貞山運河の改修でしたが、明治17年(1884年)の嵐により野蒜港の突堤が流出するなど、致命的打撃を受け、野蒜築港事業は頓挫(とんざ)します。また、貞山運河については、明治20年12月、日本鉄道会社奥州線「上野-仙台-塩釜」間が開通したことにより、物資輸送は鉄道へと移行し、運河に対する期待は、薄れていくこととなりました。

今日見る運河の石積み護岸、水路幅や切り通しの風景は、この時の拡張工事によって、その原型が造られたものです。貞山運河は、日本最初の直轄港湾事業に伴う運河遺構として重要であることから、平成12年、日本土木学会により「土木学会選奨土木遺産」に選定されました。

大代の切り通し

大代の切り通し

貞山運河は、仙台湾岸の低地に造られた運河ですが、唯一、丘陵部を通る場所があります。中峯橋付近がそれにあたります。

この場所の開削について、多賀城町誌には、

「御船入堀を掘る時の難工事であったのは、大代牛生間の石ヶ森の麓の石山の開削であった。この貞山堀を掘る時の人夫うちには、罪人も大分あった。掘割(切り通し)の工事は、殊に難事業であったので、罪人はこの難工事に廻された。そして非常に残酷に使役された。そのために倒れるものもかなりあった。今と違って死んでもお構いなしで、一人一人葬ることも面倒だと、近くの谷地に穴を掘ってどしどし埋めて、簡単に土饅頭をつくっていたそうである。しかし、その後、数十年経つ中に葦谷地になってしまったので、付近の人々は、この葦を刈り取って屋根を葺いた。ところが不思議にもその葦で葺いた家は、大抵火事に遭った。そこでこれはきっと死人の祟りだろうと、段々話が大きくなって、それから後は皆恐れて誰もこの谷地の葦を刈るものがなくなった」

という言い伝えが紹介されています。

御舟入堀の工事の中で、この丘陵の開削が、かなりの難工事であったことがうかがえます。

この切り通しでは、樹陰が水面に映る光景が見られ、貞山運河の中でも際立った景観を醸し出しています。

江戸時代の大代村

御舟入堀が南北に縦断する大代村は、現在の多賀城市域にあった他の村とは異なり、漁村としての性格をもっていました。今回は、そうした大代村の様子について、仙台藩が安永2年(1773年)から8年間かけて、領内の村々に提出させた村勢要覧ともいうべき『風土記御用書出』を中心にみてみましょう。

まず、村の名前について、慶長(1596~1614年)以前は、「大城」と書いていたと記されています。

村高や家数などに続いて、「御番所」があったという記載があります。これは、河川や海岸に置かれ、米穀の密売買の取締りなどを行う「御石改所(おんこくあらためじょ)」という藩の役所のことで、御番所に当番として詰め、さまざまな役目を請け負うのが、周辺の「茶屋敷」16軒の人々でした。

加えて

「一献上品ハ白魚ハ鰻ハ鰍(かじか)鰻ノ四品」

と記されており、漁村としての性格を垣間見ることができます。

村の産物であった4種類の水産物は、藩主への献上品として、「茶屋敷」の人々が御番所詰役に上納し、原町にあった代官所に運ばれました。そして、仙台城下肴町(さかなまち)(大町の北にあった、魚介類を独占的に扱う商人町)の五十集(いさば)商人を通じて藩に納められ、藩主などの副食にあてられたのです。

このように大代村は、季節ごとの魚介を毎日仙台城下に供給するという、重要な役割を担っていました。『鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)』という江戸時代の書物に、漁村と農村の両方の側面があると記されている村の姿が、ここからも窺えます。他の村には見られない、「舟16艘」という記載も、こうした様子を裏付けるものといえます。

また、塩竈湊に陸揚げされ、仙台城下の材木商に駄送されていた材木が、文化・文政(1804~1829年)頃になると大代村に多く陸揚げされるようになります。駄送の際の距離の短さと、駄賃の安さが要因であったと考えられ、その際には、村で飼われていた「馬弐拾五疋(ひき)」が使われたのでしょう。(『風土記御用書出』は『多賀城市史』に掲載されているものを参照しました)

御石改所

大代村を通る御舟入堀(おふないりぼり)沿いには、米穀の密売買を取り締まったり、年貢米の輸送や藩の許可する米穀の出入りを監視する役目を担った「御石改所(おんこくあらためじょ)」が置かれていました。明治20年(1887年)完成の『仙台藩租税要略』という、仙台藩の租税制度等の諸法令を集録した本には、藩内の御石改所として39カ所が記され、宮城郡では塩竈、蒲生、磯崎、寒風沢と並び、「宮城大代」が見えます。設置場所を見ると、江合川、鳴瀬川、北上川、三陸海岸、牡鹿半島、仙台湾沿岸、阿武隈川といった、仙台藩領の交通の要地に置かれ、取り締りがいかに厳重だったかが知られます。米を最重要商品としていた仙台藩は、早くから取り締まりに力を入れ、享保17年(1732年)に出された密石取締令では、他領は勿論、領内でも他の郡や村に米を密売した者を処罰するといった、厳しい内容を打ち出しています。

大代村の御石改所について、安永3年(1774年)の「大代村風土記御用書出」には「御番所」と記されています。その運営のため、藩の御用船である御石米瀬取船(おんこくまいせとりぶね)8艘、小船7艘があり、人足として、村人を出さなければなりませんでした。その勤めを担ったのが、御番所の周り、16軒からなる「茶屋敷」の人々です。住人は1日交替で番所に詰め、瀬取船の一切の世話も引き受けていました。さらに大人数が必要なときには、決められた役割の人が、16軒全ての住民に知らせることもあったようです。このような任務を請け負う代わりに、年貢・諸役が免除されていたのです。さらに「御献上品」として白魚、蜆(しじみ)、鰍(かじか)、鰻(うなぎ)の4品も、茶屋敷の人々が番所の詰役(つめやく)の手を通して上納し、藩主などの副食の一部にあてられました。このような納入義務も、一般の諸役が免除された理由の一つです。なお、風土記には「茶屋町」とも表現されており、家並みが町屋風に並んでいたことを示しています。その中には酒屋2軒、菓子屋3軒などと見え、船で働く人たちの休息場があったことがわかります。御舟入堀沿いにある、大代村独特の姿が浮かび上がってきます。

御舟入堀と街道

大代地区を通る浜街道

御舟入堀(おふないりぼり)は、仙台城下へ物資を輸送するために開削された運河で、和田房長(わだふさなが)が鹽竈神社に献納した石灯籠から万治3年(1683年)に完成したことが判明しています。しかし、これにより塩竈に物資が荷揚げされなくなったことから、貞享2年(1685年)、塩竈湊を保護する法令が発せられます。そこには、「勝手次第に宮城郡諸浜に荷を揚げていた漁船や商人船をはじめ、五十集(いさば)(魚介類)船、自国および他国の材木船とも、すべて塩竈湊にのみ着岸し荷を売買すること」が記されており、米以外の物資はすべて塩竈湊に降ろされることになりました。その荷は、馬に付けかえ、塩竈街道を利用して、仙台城下まで運ばれるようになります。

ところが、その5年後の元禄3年(1690年)、宮城郡の塩竈を除く八か浜(花淵・吉田・代ヶ崎・大代・東宮・蒲生・松ヶ浜・菖蒲田)の漁民から「風の向きや日和、潮の流れによっては塩竈に入ることが難しく、生魚の活きが落ちてしまうことがあり、漁民・商人が困窮してしまうので、貞享2年以前のとおり勝手次第に塩竈以外の浜々に入らせてほしい」との訴えが出されます。宮城郡諸浜の多くは藩主の食事に供する魚を納める必要があり、城下へ魚を供給する大切な役割を担っていました。このようなことから、藩は、暑い季節に生魚の鮮度が落ちることを避けるため、元禄3年10月以降においては、3月1日から8月いっぱいまで、諸浜への入港を許すこととなりました。そこに揚げられた魚介類は、七ヶ浜-大代-八幡-中野-福室-苦竹を通る「浜街道」と呼ばれる街道を利用して城下に運ばれました。

嘉永5年(1852年)の大代村の村掟には、「魚介類等を運ぶ際、馬の背に積んだ荷が落ちそうになったり、荷を落としてしまったりした時には、お互い知らない振りをせずに、力を合わせて手伝いをしなければならない。輸送の途中で喧嘩口論がおきた時には居合わせた者が仲裁しなければならない」といったことが記されています。馬による輸送が盛んに行われ、それに関する具体的な取り決めがなされていたことがわかり、御舟入堀と浜街道の結束点である大代村の様子を垣間見ることができます。

和田房長

寛文13年(1673年)、和田房長(半之助)が鹽竃神社に献上した石灯籠(西回廊前)。願文に、御舟入堀と舟曳堀が完成した際に石灯籠2基を献上するとあり、その内の1基。

御舟入堀(おふないりぼり)や舟曳堀(ふなひきぼり)の開削は、藩を挙げての一大事業であり、その責任者として事業を推進したのが、当時藩の出入司(しゅつにゅうづかさ)として財政部門を担っていた和田房長(わだふさなが)です。

和田氏は本姓が秦(はた)氏であり、渡来人の流れをくむ氏族です。もとは大和国(現奈良県)の武士であり、房長の養父為頼が13・14歳の時に伏見で政宗に見出され、伊達家に仕えました。家格は藩内では六番目の着座であり、禄高も房長の代で千五百三十石余を拝領し、藩内では上級に属する家柄でした。

房長ははじめ半之助、後に織部(おりべ)を名乗ります。寛永年中(1624~1643年)二代藩主忠宗の時に小姓組として出仕し、承応元年(1652年)には目付となり、万治2年(1659年)三代綱宗の時に小姓頭となっています。寛文元年(1661年)四代綱村の時に出入司となり、一時病を得て職を免じられましたが復職し、およそ39年間、藩主三代に仕えたとされています。

御舟入堀と舟曳堀の開削にあたり、工事責任者である房長と工事担当者である佐々木伊兵衛は、寛文10年(1670年)7月にそれぞれ鹽竈神社に願文を奉納しています。その中には、藩の記録には見られない工事に関わる具体的な内容が含まれています。

房長の願文には、御舟入堀の開削が藩祖政宗の時代に考案された事業であったこと、藩命によって御舟入堀と舟曳堀の両方の工事を行ったことが記されています。一方、佐々木伊兵衛の願文には、房長が御舟入堀開削の計画を立案したのが寛文4年(1664年)3月であることや、計画には約四年を要し、幕府に届出て許可が下ったのが同10年(1670年)4月、同年8月17日に起工したことなどが記されています。

ところで、市内留ケ谷の向泉院には、「慧香院殿華顔浄蓮大姉」という女性の法名を刻んだ元禄6年(1693年)5月5日の墓碑が残されています。寺伝によれば、慧香院は和田房長の側室とされ、向泉院がある場所は、かつてその側室が庵を結んでいた場所とも伝えられています。和田房長が本市に残した数少ない足跡といえます。

御舟入堀

御舟入堀

貞山運河の一つ御舟入堀(おふないりぼり)は、塩竈湾の牛生から七北田川河口の蒲生にかけて、全長約7キロメートルにわたって掘削されました。

この運河は、仙台藩の海の玄関口とも言うべき塩竈湊と仙台城下を結び、塩竈湊に送られてくる米などの重荷を舟運で城下近くまで輸送することを目的としたものでした。そのため、それまで湊浜(七ヶ浜町)で太平洋に注いでいた七北田川が蒲生へと向かうよう付け替えられ、さらに、七北田川-苦竹間を結ぶ舟曳堀も開削されました。

これら一連の工事は、万治年間(1658~1661)には着工されたことが安永三年(1774)の風土記御用書出から知ることができます。また、この事業を推進した藩の出入司(財政担当)・和田織部房長が鹽竈神社に奉納した願文には、「安全な工事は鹽竈神社の御加護によるもので、これに報いるために工事が完了した際には、石灯籠二基を献上する」と記されています。

この石灯籠は鹽竈神社境内に現存し、奉納年月日は寛文十三年(1673)三月吉祥日となっていることから、この時に完成していたことがわかります。

御舟入堀の完成により、仙台藩領北部から仙台城下へは、塩竈から陸送することなく物資を輸送することが可能となり、その結果、素通りされる塩竈の衰退を招くこととなりました。そのため、貞享二年(1685)伊達綱村は「藩米以外の荷物や魚介類、材木を積んだ船はすべて塩竈港に着岸すること」という特令を出して、塩竈の町を保護し、繁栄をみることとなります。さらに、東宮・吉田・菖蒲田・花渕・松ヶ浜・代ヶ崎(以上、七ヶ浜町)・大代(多賀城市)・蒲生(仙台市)の八つの浜が、この特例撤廃を求めた結果、夏の期間、生魚に限って、八つの浜に水揚げすることを例外的に認めることになり、七ヶ浜・大代から仙台城下への生魚輸送ルートも構築されることとなりました。

このように一部例外措置はありましたが、御舟入堀は明治を迎えるまで、米中心の輸送路として機能することになります。

貞山運河とは

貞山運河の位置と名称

貞山運河は、阿武隈川河口から塩竈湾まで、全長31.5キロメートルにおよぶ日本で1番長い運河です。北の東名運河、北上運河を合わせた運河群としての総長は、全長46.4キロメートルにおよびます。

貞山運河の開削は、江戸時代の初め、仙台に城下町を建設するのに先立ち、阿武隈川と名取川の間に内川が開削されたことに始まります。木材などを筏(いかだ)で曳(ひ)いたことから、この運河は、後に「木曳堀(こびきぼり)」と呼ばれました。

その後、仙台城下への物資輸送が盛んになると、万治年間(1658年~1661年)までに塩竈湾~大代間、次いで寛文10~13年(1670年~1673年)に大代~蒲生間と、多賀城市域を通る「御舟入堀(おふないりぼり)」が順を追って造られました。さらに、蒲生から仙台城下へ物資を輸送するため、七北田川沿いの福室から苦竹まで「御舟曳堀(おふなひきぼり)」が開削されました。

これらの運河の開削は、伊達家家臣和田織部房長と佐々木伊兵衛によって進められ、工事の無事完成を祈願して奉納された石灯籠が鹽竈神社境内に残されています。

明治になると、士族の救済事業として七北田川~名取川間の「新堀」の開削が行われ、その後、日本最初の西洋式港湾建設事業である野蒜築港事業に伴い、運河の大改修が行われました。

「貞山運河」という名称については、明治になって、発案者である藩祖伊達政宗の偉業を讃えるため、政宗の法名「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」にちなんで「貞山堀」と命名されたと言われています。それを裏付けるように、明治10年の県庁文書には「貞山堀」の名称が見られます。

明治22年、宮城県は「運河取締規則」を定め、名称を「貞山堀」から「貞山運河」へと変更し、現在もこの名称で親しまれています。

(昭和40年、新河川法により、多賀城市域の運河については、大代一丁目の橋本橋の北は「旧砂押川」、南側は「砂押貞山運河」という名称になっています。)

お問い合わせ

埋蔵文化財調査センター  

宮城県多賀城市中央二丁目27番1号

電話番号:022-368-0134

ファクス:022-352-6548

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