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更新日:2022年2月8日

歴史の風 神社編

「広報多賀城」でご紹介している「歴史の風」を転載しています。

歴史を通して発信される多賀城市の魅力をご紹介します。

多賀神社(たがじんじゃ)

多賀神社

                   竹の箍が奉納されている多賀神社

多賀神社は、多賀城市市川字六月坂の旧塩竈街道沿いに鎮座しています。神社には今でも竹の箍(たが)が多く奉納されている光景が見られます。この神社は、滋賀県にある多賀神社の分霊を勧請 (かんじょう)したと伝えられており、延命長寿を願って、あるいは、頭痛を患う者が平癒祈願をし、御礼詣りにその者の年の数の箍を供えるなどと伝えられており、人々の願いを聞き届けてくれる神様として信仰されている様子が伺えます。

この多賀神社ですが、いつ頃からこの地にあるのでしょうか。江戸時代の村勢要覧ともいうべき『風土記御用書出』の市川村分(安永(あんえい)3年=1774年作成)には、神社の項に村鎮守奏社明神(そうしゃみょうじん)社、荒脛巾(あらはばき)神社、白山社、八幡社の4社があげられていますが、多賀神社の名は見えません。しかし、その存在を伺わせるいくつかの資料も残っています。その一つが、仙台藩の儒学者である佐久間洞巌(さくまどうがん)が著した『奥羽観蹟聞老志(おううかんせきもんろうし)』(享保(きょうほ)4年=1719年成立)です。この中の「多賀城」および「多賀ノ神祠」の2項目で洞巌は多賀神社が多賀城跡の中にあると記しています。二つ目は明治17年の『陸前国神社宝物古器物古文書目録』に収められた市川村多賀神社の目録で、明和9年(1772年)銘をもち、神社の由来を記した木札状のものが報告されています。三つ目は多賀神社に残る棟札です。これは嘉永(かえい)元年(1848年)経年破損指していた社を新たに造立した際のものです。これらの資料から、江戸時代、18世紀には市川村に多賀神社が存在していたことがわかります。

神社はかつて東約100メートルのところにありましたが、多賀城跡の環境整備事業に伴って現在の場所に移されました。移設前の場所に残る2本の杉の木は、かつての参道両脇にあったもので、当時の名残を今に伝えています。

笠石神社(かさいしじんじゃ)

笠石神社

               仁和多利神社境内に移設された笠石神社

笠石神社は、現在笠神1丁目の仁和多利神社(にわたりじんじゃ)境内に祀られていますが、かつては多賀城公園の周辺にあったとされ、昭和42年10月に刊行された『多賀城町誌』には、笠神村という地名の起源として紹介されています。『町誌』には、数個の巨石の傍らにささやかな石宮があり、西向きの門もあったという記載があります。具体的な場所については、現在の鶴ケ谷1丁目の多賀城公園と、その西側の宮城県多賀城分庁舎や大型商業店舗の間と見られる記述となっています。

別当は、笠神村の板橋酉松、河野嘉吉、後山甚五右衛門の3人でしたが、後には宅地が近い後山氏が管理するようになり、昭和19年、笠石神社の神霊のお告げにより、周囲にあった大石とともに石宮を自宅の庭に移し、同氏の氏神として祀ったという経緯も紹介されています。

しかし、かつて笠石神社の近辺で生活していた人々による郷土史『古里の笠神を訪ねて』には、現在の多賀城中学校正門前から天真小学校へのぼる坂道の入り口に笠石神社があり、そこに直径約3.3尺、高さ2.2尺ほどの大石と石のお宮が祀られて、幟(のぼり)も立てられていたと記載されています。

もうひとつ大きな問題があります。仁和多利神社に保管されている明治37年(1904年)の棟札に、「神明社笠石明神」と記されており、安永(あんえい)3年(1774年)の笠神村風土記御用書出に記載がある神明社と笠石明神が同一の神社とされていることです。風土記には、笠石神社についての記載はなく、神明社については、所在地の小名が日向、誰がいつ勧請したかは不明であるが、社地は竪横とも5間、社は南向きで2尺作りとあり、地主・別当は新屋敷の久兵衛、祭日は9月19日と記載されています。

また、「名石」の項に「笠石」という異体の石について記載されていますが、笠石神社については触れられていません。日向という地名については不明ですが、少なくとも笠石神社の祭日3月28日とは異なっており、神明社との関係は、簡単には整理できない問題を含んでいます。

天満宮(てんまんぐう)

天満宮

                          天満宮

天満宮は市内留ケ谷(とめがや)1丁目に所在する社です。境内の「記念碑」には、天神社または太郎天神と称し、菅原道真公を祀ると記されています。

安永(あんえい)3年(1774年)の『留ケ谷村風土記御用書出』には「村鎮守 天神社」と見え、「むとう」という小名にあると記載されています。社は南向き3尺作り、鳥居も南向きとあり、現在もその姿をとどめています。管理者にあたる別当は、野田屋敷の弥五助と次兵衛が勤めていました。

「記念碑」には、明治35年(1902年)に1千年祭を行った際に社殿を修理し、その後大正2年に修増築、昭和33年には、前年の暴風による破損に対する改築を行ったことが刻まれており、社殿の変遷が伺えます。

この村鎮守には、次のような伝承が伝わっています。もともとこの社は野田の桜井家の屋敷内に、氏神として祀られていました。そして隣の分家には夜泣き地蔵があり、子どもの夜泣きを治すお地蔵様ということで、信仰を集めていました。ある年の田植えの時期、人手が足りなくて困っていると、どこからか二人の働き手が現れて、一人は馬の鼻取りを、もう一人は馬鍬(まんが)押しをして代搔き(しろかき)を手伝ってくれたのですが、昼食を出そうとしたところ、二人の姿が見えなくなってしまったというのです。探すと、お地蔵様が水口(みなくち)に横になっていたことから、鼻取りをしてくれたのは夜泣き地蔵だったことがわかりました。そして、馬鍬押しをしたのは本家の氏神、天神様に違いないと皆で噂したということです。また、太郎天神という名称については、桜井家の家督息子の太郎が伊勢参りに行くにあたり、両親が道中の無事を祈って願をかけ、天神様がその願いを叶えてくれたことからついたと言われています。

現在境内には「記念碑」をはじめ4基の石碑があり、これらはいずれも地元留ケ谷はもとより塩釜の住民なども含め、多くの人々の寄附により建立されました。先の伝承と併せ、人々の天満宮に対する篤い信仰の念を今に伝えています。

浮島神社(うきしまじんじゃ)

浮島神社

JR東北本線国府多賀城駅の北約300mのところにある小高い丘が歌枕「浮島」で、ここに浮島神社が鎮座しています。

平安時代の承保(じょうほう)から承暦(じょうりゃく)年間(1074~1080年)、陸奥国の長官であった橘為仲(たちばなのためなか)は、浮島神社を詠んだ歌を残しています。

また、12世紀の文書集である『朝野群載(ちょうやぐんさい)』には延久(えんきゅう)6年(1074年)のこととして、御体御卜(ごたいのみうら)(天皇の身体の平安を占う儀式)の結果、延喜式外社の陸奥国浮島社・塩竈社・鳥海社に祓いを行わせるという記載があり、ここでも浮島神社の存在が確認できます。

一方、安永(あんえい)3年(1774年)の『浮嶋村風土記御用書出』には浮島神社の名はなく、神社としては「村鎮守 多賀の神社」「大臣神社」の二社が見えるのみです。多賀神社はかつて「多賀御城主」が近江国(滋賀県)の多賀神社を勧請したもので、奥州百座、宮城郡四座のうちの一つと伝えられているとし、社地は竪90間・横40間、社・鳥居とも南向きで、「多賀神社」と書かれた額が掲げられていたこと、9月15日が祭日であることなどが明記されています。

ところが元禄初め(17世紀末)頃の鹽竈神社末社関係史料のうち、浮島村肝入(きもいり)や組頭(くみがしら)などの連名による文書には、浮島村の多賀神社は浮島明神の名で伝えられてきたが、社の老朽化による新築の際、湯立ちをして託宣を行ったところ、多賀の明神としてあがめるようお告げがあったので名前を改めたと述べられています。さらに、祭礼御用を勤める人が替わり、祭日もお告げによって変更されたともあります。

こうした村側の記録からは、村鎮守はもともと浮島明神と称していたこと、藩政確立期頃に神社の名称や祭日など変化したことなどが伺えます。明治4年(1871年)、多賀神社は浮島村の総鎮守として村社「浮島神社」となり、明治末年の全国的な神社合祀(ごうし)の波にものまれることなく、今なお氏子や地域住民から敬われています。

 

大日賣神社(おおひるめじんじゃ)

大日賣(おおひるめ)神社

本市高橋五丁目の奈賀済公園の東側に大日堂があります。現在は住宅地の中に、新しい堂宇が鎮座していますが、以前は約600メートル北西の、村外れの寂しい場所にありました。

安永(あんえい)3年(1774年)の「高橋村風土記御用書出」には、仏閣として「村鎮守 大日堂」とあり、寛永(かんえい)年中(1624~1643年)創建との伝承を記しています。境内は竪七間、横五間、堂は南向きで二尺四面、南向きの鳥居があるとの記載もあり、その名が示すように大日如来を祀る仏閣的要素と、村鎮守として鳥居を構えた神社的要素が混在する様相は、この大日堂の大きな特徴となっています。これは神仏習合思想によるもので、平安時代末頃から盛んになり、慶応(けいおう)4年・明治元年(1868年)に明治政府によって神仏分離令が発布されて、仏教と神道が明確に区分されるまで続きました。神仏分離令により、仏閣「大日堂」は大日賣神社として新たな歴史を刻むことになります。

明治43年3月、南宮神社(南宮村村社)、日吉(ひよし)神社(山王村村社)、稲荷神社(新田村村社)、大日賣神社(高橋村村社)を奏社宮に合祀(ごうし)したいという合祀願が、各神社の惣代など連名で県知事あてに提出されます。その理由は、氏子が少なくて今後維持していく見込みがなく、祭祀などを行っていけないというものでした。

現在、陸奥総社宮(奏社宮)には南宮、山王、新田、高橋の各村社の棟札が保管されており、大日賣神社については、弘化(こうか)2年(1845年)の大日如来堂修復、安政(あんせい)4年(1857年)の大日堂奥殿修復、文久(ぶんきゅう)4年(1864年)の大日堂奥殿の屋根修復に関わる3点の棟札があります。いずれも別当は八幡村の光徳院が勤めており、同院が、八幡村周辺の村の祭祀まで執り行っていたことがわかります。

奏社宮への合祀後、神仏が不在となった地元では精神的なよりどころとして、近隣の民地に大日堂を移設し、新たに堤焼の大日如来像を造って本尊としました。その後、昭和30年頃には再び元の境内に戻り、平成10年11月に高橋土地区画整理事業によって現在地に移転するという歴史をたどります。

現在、鳥居には「大日如来」と記された扁額がかけられ、神仏が併せて祀られていた頃の歴史を伝えています。

 

冠川神社(かむりがわじんじゃ)

鞘堂が建てられる前の冠川神社

冠川神社は、本市の西部、新田字南関合に鎮座する神社です。冠川とは七北田川の別名で、神社のある場所は、七北田川まで100メートル足らずという、川沿いの地です。

中世の多賀城市を語る上で欠かせない資料『留守家文書(るすけもんじょ)』には、「河原宿五日市場(かわらしゅくいつかいちば)」「冠屋市場(かむりやいちば)」の二つの市場名が登場します。このうち、神社のある辺りが、冠屋市場の故地とする考えがあり、境内に2基の板碑があるのも、中世との関わりを伺わせます。

安永3年(1774年)に作成された「新田村風土記御用書出」によれば、社殿・鳥居ともに南向きと記されています。社殿の規模は3尺四方、社名は村鎮守「稲荷社」で、「稲荷」と呼ばれた場所に立っていました。祭日は9月15日でした。

平成26年度に実施した陸奥総社宮(むつそうしゃのみや)の建築学的調査の際、稲荷社の棟札2点を確認しており、1点には明治10年9月に「稲荷神社本宮」を「改正」すなわち修理したことが記され、もう1点には明治21年9月に「冠稲荷神社奥殿新建立」とあり、行き届いた管理がなされていたことが分かります。しかしながら、明治43年6月、神社は、南宮村社南宮神社、山王村社日吉(ひよし)神社、高橋村社大日霊賣(おおひるめ)神社、南宮村八幡神社とともに市川村の村鎮守奏社宮に合祀(ごうし)されることになりました。しかし合祀の後もその社地は、「常に村人の拠り所で、由緒ある聖地であり続けた」と境内記念碑に記されているように、地域の人々にとって大切な場所でした。合祀から16年後の大正15年3月、地元新田の女性たちが本堂を再建し、さらにはそのお堂を守る鞘堂(さやどう)が昭和59年に、地元の男性たちによって建立されました。加えて、現在社殿が建つ場所についても、昭和41年、新田区から有償で譲り受け、社地として永久に保存することを地元有志で決め、現在に至っています。

 

鎌倉神社(かまくらじんじゃ)

現在の鎌倉神社

鎌倉神社は、本市中央部の下馬1丁目に所在する神社です。住宅地に中で、ひときわ鮮やかな赤い社は、もとは仙台藩の家臣、芦立氏の氏神であったと伝わっています。祭神は、平安時代末期、源義家に従って戦功を挙げた鎌倉権五郎景政とされていますが、芦立氏が鎌倉権五郎を祭神とした経緯については明らかではありません。明治百年を記念し、昭和44年に本殿を流造りに、拝殿を入母屋造りに改修され、本社である鎌倉市の御霊神社(権五郎神社)より新たに神霊が迎えられています。

現在の社殿は道路に面して鎮座していますが、改修以前は現在地よりやや北側の奥まった場所にあり、木立に囲まれて立つ茅葺屋根の質素な社の写真が、昭和42年発行の『多賀城町誌』に掲載されています。

芦立氏は、江戸時代に下馬村に在豪屋敷を賜り、「宮城郡屋舗帳」という記録には、その敷地は60間四方(約3600坪)と記載されています。鎌倉神社の境内は小字が「除」であり、江戸時代には在郷屋敷など諸役が免除された土地の名残りと見られることから、現在の社地一帯は、芦立氏の屋敷地の一部であり、この氏神は屋敷の一角に祀られていたと考えられます。

江戸時代が終わり、芦立氏が領主としての立場を失ってからも、その氏神は古くから下馬に住んでいた方々によって守られ、祭祀が行われてきました。昭和44年の改修の翌年、下馬全地区の自治会に維持管理が委嘱されるにことになり、芦立氏の氏神は、鎌倉神社として下馬地区で初めての鎮守の神様になりました。鎌倉神社は、現在でも下馬地区の人々によって祭事が執り行われていますが、社主は芦立氏であり、この神社がかつてはその氏神であったという歴史を伝えています。

芦立氏の氏神だった頃の様子

 

柏木神社(かしわぎじんじゃ)

柏木神社旧社殿

柏木神社は、本市東部の大代5丁目に所在する神社です。安永(あんえい)3年(1774年)の「大代村風土記御用書出」には、「村鎮守 柏木明神社」として記載されており、その時の社殿は東向き4間作とあります。同書出には、同社が所在する小名を柏木と記しており、舟山万年の「塩松勝譜」には、柏木神社の周囲の樹木はすべて柏の木であったとの記載があります。また、書出では、勧請の時期など不明としていますが、『宮城県神社名鑑』(宮城県神社庁編)には、寛保(かんぽう)年間(1741~43年)、宝暦(ほうれき)年間(1751~63年)、文政(ぶんせい)年間(1818~29年)の改修を伝える資料も存在したという記載があります。

明治4年には、一地方の氏神と仰がれる社として村社に列し、柏木神社となりますが、明治42年には笠神字上ノ台にあった仁和多利神社に合祀(ごうし)されてしまいます。宮城県知事寺田祐之に宛てて、両社の社掌や氏子惣代人が連名で提出した「神社合祀願」が県庁公文書として現存しており、それには合祀の理由として、氏子が少なくて祭祀が行われず、今後維持していく見込みがないと記載されています。

ところで、この書類には、柏木神社の所在地が大代字船場と記載されており、昭和6年の地図には、現在の大代1丁目の家並みの中に神社の位置が示されています。合祀された後も、社殿は現地に残っていたと考えられます。

昭和18年9月、笠神の仁和多利神社の一帯が海軍工廠用地になると、仁和多利神社は大代字中峰(現在の柏木神社境内地)に遷宮することとなり、合祀されていた柏木神社は再び大代の地に戻ることとなります。

昭和35年、氏子の強い要望により、仁和多利神社は新たな社地を求めて笠神に遷宮することとなり、一緒に合祀されていた須賀神社も牛生にそれぞれ復帰したため、柏木神社のみが残ることとなり、現在に至っています。

現在の社殿は、明治百年記念として新たに造営されたものであり、旧社殿は戦没将兵を祀る社として境内の一角に残されています。

 

仁和多利神社(にわたりじんじゃ)

明治24年の地図に見える仁和多利神社

仁和多利神社は、笠神(かさがみ)にある神社です。

後醍醐(ごだいご)天皇の元応(げんおう)元年(1319年)、村内の人々が病門守護神として、村の裏鬼門(南西方向)に勧請(かんじょう)したのが始まりとされています。

江戸時代には「仁和田里権現(ごんげん)社」と称しており、笠神字上ノ台(うわのだい)(現在の鶴ヶ谷。多賀城公園のある丘陵付近)に鎮座していました。神社には、元禄(げんろく)12年(1699年)、宝永(ほうえい)7年(1710年)、元文(げんぶん)4年(1739年)、文政(ぶんせい)11年(1828年)の棟札が残されており、たびたび建立や修理が行われていたことがわかります。

明治4年(1871年)、神仏分離令に伴い、権現号を廃して「仁和田里神社」となり、明治11年(1878年)、現在の「仁和多利神社」という名称になりました。

明治の終わりころになると、笠石神明社(かさいししんめいしゃ)(現在の多賀城中学校東側付近)、牛生(現:塩竈市牛生(ぎゅう)。江戸時代、牛生は笠神村)の須賀神社を合祀し、さらに、明治42年(1909年)、大代(おおしろ)字船場(ふなば)にあった柏木神社の氏子から仁和多利神社への合祀願いが出され、柏木神社も合祀されますが、柏木神社と須賀神社は昭和36年(1961年)にそれぞれ復帰しています。

昭和17年(1942年)から多賀城海軍工廠(かいぐんこうしょう)の建設の建設が始まると、大代字中峯(なかみね)(現在の柏木神社の場所)に一時移転することになりますが、昭和25年(1950年)に地元の方々より土地の寄進を受け、現在の場所に遷っています。昭和32年(1957年)には拝殿(はいでん)、昭和44年(1969年)には弊殿(へいでん)が建立されて境内が整えられ、今日に至っています。

 

南宮神社(なんぐうじんじゃ)

祭礼ののぼりが立つ南宮神社

南宮集落の北に広がる水田の中に「色の御前」という小字があり、木立に囲まれて南宮神社が祀(まつ)られています。安永3年(1774年)の「南宮村風土記御用書出」には「南宮明神社」と見え、村の名前はこの神社の名にちなむものとされています。社地は縦9間、横7間、社殿は5尺四方の南向きで、鳥居は東南の方向を向いて立ち、祭日は3月9日でした。神社は別名「紫明神」といい、そのことから「色の御前」とも言われるようになったとあります。さらに、時期は不明としながら、美濃国(みののくに)不破(ふわ)郡にある金山彦命(かなやまひこのみこと)を勧請(かんじょう)したのが、南宮神社であると書き記しています。「色の御前」について、『多賀城町誌』や『多賀城六百年史』は次のような伝説を紹介しています。

神社には、金山彦命、金山姫命(かなやまひめのみこと)が祀られていましたが、八幡村に鎮座していた若佐姫命(わかさひめのみこと)という女性の神様が、大津波によって南宮村まで押し流され、南宮神社に合祀(ごうし)されることになったことから、「色の御前」と呼ばれるようになったとのことです。

南宮神社は明治43年(1910年)、日吉(ひよし)神社(山王村)などとともに市川村の村社である奏社宮(そうしゃのみや)に合祀されました。氏子がいずれも少数で、今後神社を維持し続ける見込みがなく、祭祀(さいし)も行われなくなってしまうからというのがその理由でした。こうした動きに関し、町誌が伝える伝説によると、その翌年、村に疫病がはやり、託宣を聞くと、合祀された先が男性の神様ばかりで居心地が悪く、元の場所に戻してほしい一心でたたりをなしたことがわかりました。そこで村人たちが社殿を建て直し、祀ったということです。

広々とした水田の中、南宮神社を囲む木立の姿は鎮守の森であり、塩竈街道に面して家々が立ち並ぶ南宮の集落とともに、江戸時代から続く景観を今に伝えています。

 

日吉神社(ひよしじんじゃ)

日吉神社社殿

日吉神社は山王字東町浦に所在する神社です。

安永(あんえい)3年(1774年)の風土記御用書出によれば、いつ、誰が勧請(かんじょう)したのか不明であるが、竪27間、横21間の敷地に、一辺9尺の南向きの社があったこと、祭日は3月15日と9月15日であったことが記されています。名称については、山王社、山王権現と呼ばれ、山王村の名はこの神社が鎮座していたためとも記されています。

さらに、この神社について知る手掛かりとして、明治40年(1907年)の「神社由緒調」(宮城県庁文書)があります。これには、維新前(江戸時代)は山王大権現との名称であったが、明治4年7月に日吉神社と改称し村社に列せられたこと、勧請された時代は不明であるが、国分盛重(伊たち政宗の叔父)の崇敬があって多くの寄進があったこと、四代藩主伊達綱村が武運を祈るため家臣であった成田氏に命じて社殿を改築したこと、以後、成田氏の子孫が祭典当日に参詣し、その他諸藩の武士からも多少の祭典料の寄進があって、祭典が盛大に行われたことも記されています。

さて、成田氏によって改築された社殿は、明治32年(1899年)に類焼し、明治34年(1901年)6月に再建したことが「神社由緒調」には記されています。これを裏付けるように、平成26年度に実施した陸奥総社宮の建築学的調査で、日吉神社が明治34年に新築された際の棟札が発見され、そこには明治32年に社殿が類焼したことも記されていました。

明治43年(1910年)、日吉神社は政府の地方改良運動の一環で、南宮神社(南宮)、稲荷社(新田)、大日霊賣神社(高橋)、八幡神社(南宮)とともに奏社宮に合祀されましたが、村の鎮守であったことから、小社を置いてその歴史をしのぶ縁とし、今日に至っています。

 

荒脛巾神社(あらはばきじんじゃ)

荒脛巾神社

塩竈市との境界に近い、市川字伊保石に荒脛巾神社があります。塩竈街道から南に入る小道を下ると西向きの鳥居があり、その東側の民家の敷地の奥に、養蚕神社と太子堂に挟まれて西向きの社殿があります。この神社は、古くから足の神様として信仰されており、靴や草履などの履物が数多く奉納されています。

この神社については、安永(あんえい)3年(1774年)に作成された「市川村風土記御用書出」に次のような記載があります。

「(所在地の)小名は荒脛巾で、太宰九吉様の知行所。誰がいつ勧請したかは不明であるが、14ある鹽竈神社の末社の一つ。この神社に祈願し成就した場合は脛巾を納めるという」

社名にもなっている脛巾(はばき)とは、旅支度の際、脛(すね)を保護するために巻きつける布のことであり、書出に見られる脛巾を奉納する習わしは、靴や草履に形を変えながらも今日まで受け継がれています。

ただし、現在では足に限らず、腰から下の病気に効き目があるとして、性病や婦人病に悩む人々からも信仰されており、男性の性器をかたどったものも数多く奉納されています。

この神社の規模について、書出では「五尺四面(桁行・梁行ともに五尺)」と記載されていますが、現在の社殿は梁行約4尺、桁行4尺5寸となっています。屋根をはじめ各所に腐朽が進んでいるようですが、虹梁(こうりょう)(弓形に反った梁(はり))などの建物意匠は安永期(1772年~1780年)頃の様式と考えられており、市内に現存する数少ない江戸時代の神社建築として貴重です。

書出には、藩主重村が二貫文(米約2000升)の社領を寄進したという記載もあり、仙台藩によって保護されていた様子も伺うことができます。

塩竈街道からの入り口には、荒脛巾神社へ参詣する人々のための道標が3基立っています。その内の1基は寛政(かんせい)8年(1796年)に造立されたものであり、街道から奥まった場所に鎮座する本社への案内役を担い、今日に至っています。

 

貴船神社(きふねじんじゃ)

貴船神社

塩竈街道に面した市川字金堀の木立の中、覆堂に守られて貴船神社があります。山城国愛宕郡(おたぎぐん)鞍馬村(現在の京都市左京区)にある貴船神社の分霊を祀ったと伝えられており、海上安全、大漁祈願に霊験あらたかな神として知られています。本殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)と呼ばれる形式の、正面・側面とも1間という小型の社殿で、屋根は木羽葺(こばぶき)の切妻造りとなっています。

本殿には棟札が1点納められています。表の面には、「奉造営白山権現宮一宇国家安全万民豊饒所」という主題とともに、施主である市川村金山屋敷の菊池七兵衛、塩竈村の喜惣次永春を棟梁とする宮大工の勘兵衛、与四郎、喜伝次の名が記されています。裏面には、遷宮の導師を務めた神奏院(奏社宮の別当寺)の法印慶康の名と、宝暦(ほうれき)6年(1756年)12月の年次が確認できます。

この白山権現宮については、安永(あんえい)3年(1774年)の「市川村風土記御用書出」に、奏社明神社、荒脛巾(あらはばき)神社、八幡社とともに白山社の名称で記載され、場所は金山、社地は縦・横ともに30間、社は南向きで四面ともに3尺、鳥居は東向きとなっています。

棟札と「市川村風土記御用書出」に見られるように、貴船神社は、江戸時代中期には白山権現、白山社と呼ばれていたことがわかります。しかし、文政(ぶんせい)5年(1822年)に制作された地誌「鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)」には「貴船神祠」、文政12年(1829年)以前の制作とされる「奥州名所図会」には「貴布禰の社」と表記され、近代に制作された地図や冊子などには「白山神社」と「貴船神社」の名称がそれぞれ使用されています。

平成26年夏、専門家により初めて建築学的な調査が実施されました。部分的に欠損してはいるものの、本殿に施された装飾の意匠や本殿内部に設けられた朱塗りの祭壇はいずれも江戸時代中期の様式であり、棟札の年代とも矛盾しないことが明らかになりました。

貴船神社には、現在でも船をかたどった木製品が多数奉納されています。これは、祈願に訪れた人がその一つを借り受け、祈願成就の後に倍にして返すという習わしによるもので、浜方の人々の信仰のようすを伺うことができます。

 

陸奥総社宮(むつそうしゃのみや)

陸奥総社宮の祭礼

 

 

塩竈でるときや手ン振りよ

総社宮からリャ胸勘定

 

これは、江戸時代につくられた「塩竈甚句(しおがまじんく)」と呼ばれる民謡で、鹽竈神社落慶(らっけい)の祝典を上げた際、余興として文人酔客らにつくらせたものが起源と言われています。

この民謡に登場する総社宮こと陸奥総社宮は、陸奥国の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)(注)百社を祀る神社で、多賀城東門跡の北東に鎮座しています。

江戸時代には奏者明神社・奏社宮などと呼ばれ、鹽竈神社の十四末社の一つで、市川村の村鎮守でもありました。

神社に残されている棟札からは、貞享(じょうきょう)4年(1687年)鹽竈神社末社「奏者明神宮」として再興、元禄(げんろく)14年(1701年)修理、正徳(しょうとく)6年(1716年)造営、享保(きょうほ)19年(1734年)拝殿が造営されたことがわかります。

名称についても、貞享4年から正徳6年までの棟札には「奏明神宮」「奏神祠」「奏明神社」、享保19年に拝殿が造営された際には「奏宮」と記されており、当初は「奏者」、後に「奏社」になったことがわかります。

文政(ぶんせい)5年(1822年)に仙台の儒学者舟山萬年の記した『鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)』には、鹽竈神社に参拝する際には奏社宮を詣でてからでないとご加護がないと記されています。当時は、鹽竈神社参拝に行くということを奏社宮に申し述べ、それからお参りするのが順序とされており、その習わしは、歴代藩主から庶民に至るまで守られ、現在でもそのように参拝している人々がいます。

毎年4月中旬には、五穀豊穣を祈る例大祭が開催されます。この祭礼は、旧暦3月10日に行われていたことが江戸時代の記録から知ることができます。

祭礼では、氏子たちを担ぎ手とする神輿が鳥甲(とりかぶと)をかぶった猿田彦(さるたひこ)の先導のもと、鉦(かね)と太鼓の音を響かせながら神輿が塩竈街道を通り、氏子区域を巡行します。もともと、市川集落のお祭りでしたが、明治44年に新田・南宮・山王・高橋にあった5社が合祀されたことにより、塩竈街道沿いの市川・南宮・山王を経て、新田・高橋の集落にも神輿渡御が行われるようになり、今日に至っています。

(注)平安時代中期に編纂された法律の施行細則「延喜式」に記載されている神社

喜太郎稲荷神社(きたろういなりじんじゃ)

天童氏の氏神、喜太郎稲荷神社

喜太郎稲荷神社は、八幡2丁目のかつて「台」と呼ばれた地にあります。天童神社とも称されるこの社は、仙台藩準一家天童氏の氏神として創建されました。

安永(あんえい)3年(1774年)の八幡村風土記御用書出には、この神社に関して

童神社蔵様御拝領地之内

巳向壱間作

とみえます。「久蔵様」とは九代目倫頼(ともより)のこと。社殿は辰巳(たつみ)すなわち東南向きで正面・側面とも一間の造りであると記されており、現在の社殿もこの記載と同じ造りとなっています。

天童氏はもと出羽国の天童城主でしたが、天正(てんしょう)12年(1584年)、頼澄(よりずみ)が最上氏との戦いに敗れて陸奥国に落ち延び、やがて伊たち政宗に仕えて八幡に所領を与えられました。喜太郎稲荷神社は天童氏が八幡に移り住んだ際、この地に勧請(かんじょう)されたものです。

天童氏の故地である山形県天童市には、かつて喜太郎稲荷神社が四社あったといわれ、そのうち三社は天童氏の祖頼直(よりなお)が城を築いた舞鶴山(まいづるやま)周辺に現存し、残る一社が八幡に移されたものだということです。こうした経緯については、風土記御用書出にも「勧請蔵様御先祖、羽州天童御居城之節、御勧請被成置、慶長年中当村御在所御拝領之節、御遷宮之由申伝候事」と記されています。

八幡の喜太郎稲荷神社境内にある由来書きには「天童頼久(よりひさ)公(後の頼澄)が草刈将監(くさかりしょうげん)をはじめとする家臣たちと陸奥国をめざして関山峠を越える際、暗闇で難渋していたところ、喜太郎という忍者が現れ灯をともして愛子(あやし)まで道案内してくれたことから、命の恩人として祀った」とのいわれが刻まれています。

天童氏の守り神として、喜太郎稲荷神社は、今も八幡の地であつく敬われています。

八幡神社(はちまんじんじゃ)

震災前の八幡神社

八幡神社は、延暦(えんりゃく)年中(782~806年)に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が勧請(かんじょう)したと伝えられる神社です。

当初、歌枕「末の松山」の西方「古舘」と呼ばれる台地に鎮座していたことから「末松山八幡宮」と呼ばれ、その南にある馬場という地区は、祭礼の際、流鏑馬(やぶさめ)が行われた場所であるからと伝えられています。

また、天喜(てんぎ)・康平(こうへい)年間(1053~1065年)、源義家(みなもとのよしいえ)が鞢(ゆがけ)を奉納したことから鞢八幡、さらには、八幡の地がかつて「興井郷(おきのいのさと)」と呼ばれていたことから「沖八幡」とも呼ばれていました。

現在の宮内地区に移転したのは、鎌倉時代に八幡(やわた)氏が古舘の地に館を築いたことによるといわれています。

八幡神社の別当「末松山般若寺(はんにゃじ)」が安永(あんえい)3年(1774年)に提出した風土記御用書出(ふどきごようかきだし)や、八幡宮の棟札を写したといわれている「宮城郡末松山八幡宮社領分」(伊たち家文書)からは、16世紀中葉以前、千軒以上の門前町をもつ大社であったことを知ることができます。また、風土記御用書出には、この門前町が津波により失われ、加瀬村(現利府町)に移住した町場の人々が、新しい町を八幡町と称したとも記されています。

貞享(じょうきょう)元年(1684年)、藩主伊達綱村の計らいにより八幡神社には、金五〇切と社地の材木が与えられ、神社の建て替えが行われました。神酒(みき)と流鏑馬(やぶさめ)の射手(いて)に対する酒もこの年から与えられるなど、特別の待遇を受けるようになりました。

宝永(ほうえい)4年(1707年)、この八幡神社も火災により焼失し、文政(ぶんせい)3年(1820年)、安政(あんせい)3年(1856年)に神社は修復されたことが明治40年の「神社由緒調」(宮城県庁文書)には記されています。

明治になると、市内の神社では最も格の高い郷社(ごうしゃ)に列せられました。しかし、アジア・太平洋戦争時には、多賀城海軍工廠(かいぐんこうしょう)の建設によって八幡字窪の仮殿に遷宮しましたが、戦後再び現在の場所に戻り、今日に至っています。

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 〒985-8531 宮城県多賀城市中央二丁目1番1号

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