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更新日:2021年3月17日

古今往来-たがじょう人物伝

「みちのくの遠の朝廷」の時代から、多賀城を訪れては去って行った誰もが知っているあの人。あまり知られていないけれど、多賀城にとって忘れられないこの人。このページでは多賀城にゆかりの人々を紹介します。

伊東信雄(いとうのぶお)

伊東信雄博士

多賀城跡の学術的な発掘調査・研究の礎(いしずえ)を築いた考古学者伊東信雄は、明治41(1908)年仙台市に生まれました。第ニ高等学校、東北帝国大学法文学部と進み、昭和32(1957)年、東北大学文学部考古学講座の初代教授となります。

当初は縄文(じょうもん)文化を研究していましたが、多賀城市内の桝形囲(ますがたがこい)貝塚から出土した籾痕(もみこん)土器を見たことなどがきっかけとなり、東北地方の弥生(やよい)文化、特に東北における稲作の起源に関する研究に取り組むようになりました。昭和33年、青森県津軽地方の田舎館村垂柳(いなかだてむらたれやなぎ)遺跡の発掘調査で、炭化(たんか)した米を発見したことは有名な話です。

昭和30年代に入り、多賀城町(当時)にも開発の波が及び、史跡多賀城跡が不用意のうちに破壊されるおそれが出てきました。そこで保護対策を講じるために発掘調査を行う必要が生じ、責任者として調査にあたったのが伊東でした。昭和36・37年に多賀城廃寺(はいじ)跡、38年から40年まで多賀城政庁(せいちょう)跡の発掘調査が実施されます。その結果、多賀城廃寺跡では中心伽藍(がらん)が判明し、一方、当時内城(ないじょう)と呼ばれていた多賀城の中心部分は、平城宮(へいじょうきゅう)など宮城(きゅうじょう)における儀式の場にあたる朝堂院式(ちょうどういんしき)の「政庁」であることなどが明らかになりました。それまで軍事基地として捉(とら)えられていた多賀城の性格を見直す大発見でした。こうした成果をうけ、多賀城跡と廃寺跡は昭和41年、特別史跡へと昇格しました。そして、国の重要な特別史跡を継続的に調査研究するための機関として、宮城県多賀城跡調査研究所が設立され、現在も多賀城跡の解明が進められています。

伊東の発掘調査の対象は、縄文時代から近世の遺跡にまで及び、そのいずれもが、東北地方に対する中央からの視点を覆(くつがえ)すほどの成果を挙げています。また、考古学研究を本業とする一方、仙台の郷土史、なかでも仙台藩に関する研究にも熱心に取り組みました。それは、伊東自身が常々発言していた、地方史研究の積み重ねこそが、日本全体の歴史解明につながるという、自らの研究姿勢の実践に他なりませんでした。

徳川光圀(とくがわみつくに)

多賀城碑の写真

水戸黄門(みとこうもん)の名で知られる徳川光圀は、寛永(かんえい)5(1628)年、水戸城下にある水戸藩の家臣三木之次(みきゆきつぐ)の屋敷で生まれ、幼名を長松といいます。父頼房(よりふさ)は徳川家康の十一男で、徳川御三家の一つ、水戸家の初代藩主です。

6歳の時、兄の頼重(よりしげ)を越えて水戸藩の跡継ぎに決まり、江戸小石川の藩邸に移ります。そして寛永13年、将軍家光の命により江戸城で元服の式をあげ、家光の一字を与えられて光国と名乗ることになりました。「光圀」に改めるのは、五十代半ばになってからです。

17歳頃までは非行が多く、父頼房や家臣を心配させましたが、18歳の時、中国の歴史家司馬遷(しばせん)が著した『史記(しき)』に大変な感銘を受け、それまでの生活態度を深く反省し、学問を志すようになりました。さらに『史記』を読んだことで歴史書の重要性を認識し、これが『大日本史』編さんのきっかけとなります。また、文化財保護にも取り組み、藩内外の由緒ある神社仏閣について保護・復興に努め、仏像や古碑などの修理にも尽力しています。

天和(てんな)3(1683)年、領内巡見中に下野国湯津上村(しもつけのくにゆづかみむら)にある那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)の存在を知ります。この碑は永く草むらの中に忘れ去られていましたが、延宝(えんぽう)4(1676)年、水戸藩領であった下野国馬頭(ばとう)村の名主大金重貞(おおがねしげさだ)によって確認されたばかりでした。光圀は碑の重要さをかんがみ、碑堂を建設し、管理人を置き、碑の保存顕彰に力を尽くしました。それから間もなく、大日本史編さんにあたっての資料調査を行っていた丸山可澄(まるやまかちょう)から、多賀城碑が苔むした状態であることを聞き及んだ光圀は、仙台藩主伊達綱村(だてつなむら)に対し、碑の覆屋(おおいや)を建ててはどうかという内容の書簡を送ります。これは那須国造碑整備という自らの経験を踏まえた進言と考えられます。これがきっかけとなり、綱村の代に覆屋が造られたと考えられています。多賀城碑の保護に果たした光圀の役割は、大変大きなものであったと言えます。

34歳で二代藩主の座についてから63歳で隠居するまで、上水道の敷設をはじめとした水戸の城下町整備に大きな力を発揮する一方、文化事業を推し進め、特に文化財の保護に心を砕いたことは、今日的意義が大きいと評価されています。

松尾芭蕉(まつおばしょう)

芭蕉翁礼讃碑

「俳聖(はいせい)」「漂泊(ひょうはく)の詩人」などと呼ばれた松尾芭蕉は、正保(しょうほう)元年(1644)年、伊賀国上野(いがのくにうえの)(三重県伊賀市)で6人兄弟の次男として生まれました。

若くして伊賀上野藩の侍大将藤堂良清(さむらいだいしょうとうどうよしきよ)の嫡男良忠(ちゃくなんよしただ)(俳号(はいごう)は蝉吟(せんぎん))に仕え、良忠とともにに北村季吟(きたむらきぎん)に師事して俳諧(はいかい)の道に入りました。寛文(かんぶん)六(1666)年に良忠が25歳の若さで没すると、芭蕉は仕官を退きます。

寛文十二(1672)年、初めての句集を上野天満宮に奉納(ほうのう)した後、俳諧を職業とするべく、江戸へと活動の舞台を移します。

天和(てんな)二(1682)年、江戸で起きた大火で、深川に構えた草庵(そうあん)(芭蕉庵)が焼失、この時芭蕉は一カ所にとどまらないという心が生まれたと言われています。

その後、芭蕉は旅を繰り返し、元禄(げんろく)二(1689)年、弟子の河合曾良(かわいそら)を伴って、いわゆる「おくのほそ道」の旅に出ます。三月二十八日(旧暦)、江戸の深川を出発した芭蕉は、歴史に彩(いろど)られた名所(めいしょ)・旧跡(きゅうせき)・歌枕(うたまくら)などをたずねながら、五月八日(今の六月二十四日)、多賀城に到着します。多賀城ではでは壺碑(つぼのいしぶみ)(多賀城碑)、野田の玉川、沖の石、末の松山を見て回り、壺碑を見た芭蕉は、「これまで見てきた歌枕や旧跡はかつての姿を失っているものが多かったが、時代が変わってもこの碑だけは昔のままであり、苦労の多かった旅のことなども忘れ、涙が出るばかりだ」と感動した様子が『おくのほそ道』に記されています。また、末の松山においては、恋愛模様に歌われた末の松山と、その眼前にある墓地をみて、この世の無常を感じたことも記されています。

旅を終えた芭蕉は、江戸に留まることなく、多賀城を訪れた5年後の元禄七(1694)年、大坂において、

旅に病(やん)で 夢は枯野(かれの)を かけ廻(めぐ)る

という句を残し、51歳でこの世を去りました。その亡骸(なきがら)は「木曽義仲(きそよしなか)の墓の隣に」という遺言(ゆいごん)により、近江(おうみ)の義仲寺(ぎちゅうじ)(滋賀県大津市)に葬(ほうむ)られています。

芭蕉は多賀城において句を詠(よ)んでいませんが、壺碑の傍(かたわら)には、芭蕉が来たことを顕彰(けんしょう)して、仙台市の木下薬師堂で詠まれた、

あやめ草 足に結(むすば)ん 草鞋(わらじ)の緒(お)

と刻まれた碑が地元の俳人たちによって建てられています。

伊達吉村(だてよしむら)

大年寺惣門の写真

仙台藩五代藩主、伊達吉村は、延宝(えんぽう)八(1680)年、黒川郡宮床(みやとこ)館主伊達肥前宗房(ひぜんむねふさ)の長子として生まれました。

四代藩主綱村(つなむら)の長男が早世したため、元禄(げんろく)八(1695)年養子となり、翌年江戸城で元服(げんぷく)。その際、将軍綱吉(つなよし)の一字を与えられ、それまでの村房(むらふさ)を、吉村と改めます。そして元禄十六(1703)年、仙台藩にとって初めて、直系ではなく一門出身の藩主となりました。

この頃、仙台藩の財政は苦しくなっていました。そもそも伊達家の財政は政宗の時代から困窮していたと言われ、秀吉の朝鮮半島出兵時における軍事費や、仙台城などの造営にかかる土木工事費などがその大きな要因と考えられています。

そこで吉村は財政再建のため、藩政全般にわたる改革にとりかかりましたが、立て直しは容易ではなく、しばしば藩内においても対立を招きました。

紆余曲折(うよきょくせつ)の後、吉村は幕府に鋳銭(ちゅうせん)事業を願い出ます。これは前藩主綱村の時にも申し入れ、取り下げられた経緯がありましたが、仙台領内産の銅で鋳造することを条件に許可を得て、享保(きょうほう)十三(1728)年、石巻で寛永通宝(かんえいつうほう)の鋳造が始まりました。そして、藩財政の立て直しに最も貢献したのが、買米仕法(かいまいしほう)です。これは、農民や藩士の余剰米を、藩が前もって独占的に買い上げ江戸で売りさばき、利潤を得るというものです。仙台藩は、もともと米を最重要商品としていたわけですが、これにより江戸へ送る米は一気に増加しました。しかも享保十七(1732)年、西日本で起きた飢饉(ききん)等により江戸の米価が高騰(こうとう)したため、約五十万両という莫大(ばくだい)な利益を上げ、ようやく財政難を克服することができました、

一方、吉村は歌人としても名高く、享保年間(1716~1735)に末の松山を訪れ

秋もはや すゑの松山 こす波の なみにおもはぬ 紅葉々(もみじは)のいろ

という歌を残しています。書や絵画にも秀(ひい)で、さらには子弟教育のため学問所を開設するなど、学芸の奨励にも努めました。このように広く藩政全体にわたり安定と繁栄をもたらしたことから、後世「御中興(ごちゅうこう)の英主(えいしゅ)」と称されました。

歴代藩主中最も長い40年の治世の後、江戸大崎屋敷(品川区五反田(ごたんだ))で宝暦(ほうれき)元(1751)年、七十二歳の生涯を終えました。その亡骸は、綱村が建立した仙台市根岸(ねぎし)の大年寺(だいねんじ)に葬られています。

北畠顕家(きたばたけあきいえ)

北畠顕家(きたばたけあきいえ)

南北朝(なんぼくちょう)時代、南朝(なんちょう)の武将として活躍した北畠顕家は、『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の著者として知られる北畠親房(きたばたけちかふさ)の長男として文保(ぶんぽう)二(1318)年に生まれました。

父・親房が天皇の側近(そっきん)であったことから幼少の頃より着実に昇進し、元弘(げんこう)元(1331)年、わずか十四歳にして国政をつかさどる参議(さんぎ)に昇任するという異例の出世を遂(と)げます。

元弘三(1333)年鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐(ごだいご)天皇による建武新政(けんむしんせい)の下、顕家は陸奥守(むつのかみ)に任ぜられ、後醍醐天皇の皇子である義良親王(のりよししんのう)(のちの後村上(ごむらかみ)天皇)を奉じ、新房と親房らとともに陸奥国府へと赴(おもむ)き、東北地方を治め始めます。

建武二(1335)年鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任ぜられると、足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇に反旗(はんき)を翻(ひるがえる)し京都へ進入したため、顕家は留守(るす)氏や八幡(やはた)氏といった奥州(おうしゅう)の兵を引き連れ陸奥国に出発し、新田義貞(にったよしさだ)、楠木正成(くすのきまさしげ)らの軍と協力して京都を奪還(だっかん)、尊氏を九州へと敗走させます。

しかし、顕家が不在になると奥州では、足利方が活発に活動を起こしていたため、陸奥国へ帰還します。

尊氏が勢力を盛り返すと、戦局は悪化し、伊達(だて)氏を頼り伊達郡霊山(りょうぜん)(福島県伊達市)へと国府を移すものの、後醍醐天皇の再三の要請(ようせい)により、再び京都へ軍を進めます。

延元(えんげん)三年/建武五(1338)年、美濃(みの)国において足利方に勝利し、京都を目前にしますが、決戦を避け、奈良などを中心に一進一退の攻防を繰り返します。

このような中、顕家は後醍醐天皇の政治体制にかなり不満を持っていたようで、これを諌(いさ)める意見書を天皇にあてています。意見書には「京都のみ重要視することをやめること、諸国の租税(そぜい)を免じ倹約すること、官位を慎重に与えること、恩賞は公平にすること」などが記され、これらが聞き入れられないときは、後醍醐天皇のもとを離れ山中にこもると結ばれています。

しかし、この意見書を出した7日後、顕家は和泉国(いずみのくに)石津(いしづ)(大阪府堺市)で高師直(こうのもろなお)の軍と戦い戦死。まだ、二十一歳という若さでした。

西行(さいぎょう)

留ヶ谷にあるおもわくの橋

西行(1118~1190)は俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、京の都にあって代々宮中警護などを務める武勇の家に生まれました。承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱で功績を挙げた藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を祖先にもち、奥州藤原氏とも縁続(えんつづ)きでした。

義清は保延(ほうえん)元(1135)年、朝廷の親衛組織である兵衛府(ひょうえふ)の官僚に任ぜられた後、上皇(じょうこう)の御所の警護にあたる北面(ほくめん)の武士として鳥羽上皇(とばじょうこう)に仕え、さらに和歌、流鏑馬(やぶさめ)、蹴鞠(けまり)などに多彩な才能を発揮しました。

ところが保延六(1140)年、23歳の若さで出家してしまいます。親友の急死に遭(あ)い、無常(むじょう)を感じたのが動機となったという『西行物語』の説が主流ですが、『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』には、ある高貴な女性に対する失恋によるものとあります。

出家後数年は嵯峨野(さがの)や東山(ひがしやま)の草庵(そうあん)で仏道に励み、吉野(奈良県)で山伏修行(やまぶししゅぎょう)をしたとも伝えられています。そのかたわら諸国を巡り、数多くの優れた和歌を残しました。

西行は生涯に2度、陸奥国を訪れています。最初は30歳前後で、みちのくの歌枕に憧れ、藤原実方(ふじわらのさねかた)や能因(のういん)の足跡を慕っての旅と考えられています。2度目は晩年、文治(ぶんじ)五(1186)年のことで、源平合戦の際、平重衡(たいらのしげひら)によって焼き討ちされた東大寺復興のため、奥州藤原氏に対して砂金の提供を依頼するという使命を担ってのことでした。

平泉への途中、鎌倉に立ち寄った西行は、源頼朝(みなもとのよりとも)と面会しています。その際、頼朝の求めに応じて兵法について語り、終夜(しゅうや)に及んだと言われています。翌日、引き留められながらも平泉へ向かって旅立つ西行に、頼朝は銀作りの猫を贈りましたが、それを門前で遊ぶ子供に与えてしまったというエピソードが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に残されています。

願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ

この歌のとおり建久(けんきゅう)元(1190)年二月十六日、河内国弘川寺(かわちのくちひろかわでら)(大阪府南河内郡河南町(かなんちょう))でその生涯を終えました。歌の内容に違(たが)わぬ最期(さいご)を迎えたことが人々の感動と共感を呼び、『新古今和歌集』には、編纂(へんさん)を命じた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の西行に対する尊敬の念から、最多の九四首が人集されています。西行の生き方が与えた影響の深さは宗祇(そうぎ)や芭蕉(ばしょう)といった中世・近世の文学者に及び、さらに全国に残る西行ゆかりの地によっても窺(うかが)うことができます。

*この橋は「ふままうき もみじのにしき ちりしきて 人もかよわぬ おもわくの橋」にちなむものです。

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源頼朝(みなもとのよりとも)

源氏系統図(主要人物のみ)

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、源義朝(みなもとのよしとも)の三男として生まれ、正室の子であったため源氏の跡継ぎとして育てられました。

平治(へいじ)元年(1159)年、父義朝は平清盛(たいらのきよもり)の熊野詣(くまのもうで)の隙をついて挙兵しますが、清盛の反撃に遭い敗れます(平治の乱)。この戦いが初陣(ういじん)であった頼朝は、東国へ逃げる途中、父とはぐれ平氏方に捕らわれます。源氏の跡継ぎであったことから当然殺される運命にありましたが、当時13歳の幼い頼朝を見た池禅尼(いけのぜんに)(平清盛の義母)が哀れに思い懇願したため、伊豆(いず)の蛭ケ小島(ひるがこじま)に流されます。治承(じしょう)四(1180)年、以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)が平氏打倒に立ち上がると、頼朝も北条時政(ほうじょうときまさ)の援助を受けて挙兵します。しかし、石橋山(いしばしやま)の戦いで敗れ、一時安房国(あわのくに)(千葉県)に逃れましたが、平氏に対し不満を抱いていた東国(とうごく)武士が次々に頼朝のもとに参集し、富士川の戦いに勝利します。この勝利で勢いを得た源氏は、ついに文治(ぶんじ)元(1185)年には平氏を壇ノ浦(だんのうら)に追いつめ滅亡させました。

しかし、平氏との戦いで活躍した源義経(みなもとのよしつね)を朝廷が頼朝の推挙なしに任官したことから、頼朝の怒りに触れ、頼朝は義経を討つ決意をします。これを受けて、義経も反抗を試みますが、思うように兵が集まらず、平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとに逃れます。文治五(1189)年、秀衡が亡くなると、その子泰衡(やすひら)は頼朝の圧力に耐えきれず、ついに義経を自害へと追いやります。

さらに、頼朝は、泰衡が義経をかくまっていたことを責め、自ら陣頭に立ち、全国の武士を大動員して奥州藤原氏を攻め滅ぼします。頼朝は先祖源頼義(みなもとのよりよし)が活躍した前九年の役の例にならい、奥州合戦の際に多賀国府にも立ち寄っています。また、鎌倉への帰路、多賀国府において、陸奥国内のことについては、秀衡・泰衡の先例に従って取り扱うようにとの貼り紙をはらせています。

建久(けんきゅう)三(1192)年、頼朝は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、名実ともに武家政権の創始者としての立場を確固たるものにしますが、建久十(1199)年、落馬が原因で亡くなったと歴史書は伝えています。『新古今和歌集』には、壺の碑が読み込まれている次の歌が収められています。

みちのくの いはで忍ぶは えぞしらぬ かきつくしてよ つぼのいしぶみ

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源義家(みなもとのよしいえ)

養家が戦勝祈願したといわれる八幡(はちまん)神社

文武両道に秀(ひい)でた英雄として名高い源義家は、源頼義(みなもとのよりよし)の嫡子(ちゃくし)として長暦(ちょうりゃく)三(1039)年に生まれました。義家は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)(京都府)で元服(げんぷく)したことから、八幡太郎とも呼ばれました。

義家が、歴史の表舞台に出てくるのは、永承(えいしょう)六(1051)年、陸奥国で起きた安倍(あべ)氏の反乱を鎮(しず)めるため父頼義に従って出陣した前九年(ぜんくねん)の役(えき)からです。この戦いで頼義・義家親子は苦戦を強いられながらも、出羽の国(秋田・山形県)の豪族清原(きよはら)氏の応援によって安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)親子を破ります。義家は乱を平定した功績で出羽守(でわのかみ)に任ぜられ、父の死後、源氏の棟梁(とうりょう)(長)を継ぎます。

前九年の役から21年後の永保(えいほう)三(lO83)年、陸奥守(むつのかみ)として再び陸奥国にやってきた義家は、安倍氏に代わり勢力を伸ばした清原氏の内紛に介入します(後三年(ごさんねん)の役(えき))。この戦いで義家は清原清衡(きよはらのきよひら)(後の藤原清衡)に加勢し、寒さと食糧不足に悩まされますが戦いに勝利します。ところが、この合戦(かっせん)は清原一族の内乱にすぎないとみなされたため、朝廷からの恩賞はありませんでした。義家は、苦しい戦いをしてきた東国(とうごく)の武士たちに自分の財産をなげうって恩賞を与えたといい、後に源頼朝(みなもとのよりとも)が平氏打倒の兵を挙げた際、東国武士がいち早く駆けつけたのも、その時の恩義を感じてのことと言われています。

その後、義家は後三年の役で本来の職務を怠ったため、新たな官職(かんしょく)に就(つ)くことができず、位もそのままに据え置かれてしまいます。後三年の役から11年後の承徳(じょうとく)二(1098)年にようやく昇進するものの、嫡子義親(よしちか)の謀反(むほん)や一族同士が争うなど苦境に立たされた中、嘉承(かじょう)元(1106)年、68歳でこの世を去りました。

武勇の面で語られることの多い義家ですが、『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』には

吹く風を なこその関と 思へども 道もせにちる 山桜かな

という歌が載せられています。

鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)の祖先にあたることから、武将の理想像としてさまざまな伝説や逸話(いつわ)が生まれ、今日まで語り継がれています。

藤原実方(ふじわらのさねかた)

藤原実方は、清少納言(せいしょうなごん)などとも交遊をもつ、都では名の通った歌人の一人でした。

天皇の命によって作成された勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)に入っている歌は六十四首を数えます。なかでも『百人一首』に選ばれている次の歌が有名です。

かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

実方中将(さねかたちゅうじょう)の墓の写真

正暦(しょうりゃく)六(995)年、実方は陸奥守(むつのかみ)としては異例の高い地位で赴任し、長徳(ちょうとく)四(998)年、都に戻ることなく亡くなりました。

国司(こくし)などの地方官が実際に任国に赴任することがほとんどみられなくなったこの時期、高位の実方が陸奥国に赴いたことに関し、さまざまな伝説や逸話(いつわ)が生まれました。

13世紀に成立した説話(せつわ)集『古事談(こじだん)』には、「実方が藤原行成(ふじわらのゆきなり)と口論となり、行成の冠を取って庭に投げ捨てたところ、行成は取り乱すことなくその場にいた者に拾わせ、砂を払って付け直しました。その一部始終を見ていた一条(いちじょう)天皇は、行成こそ召し仕えるべき人物であるとして、側近に抜擢(ばってき)しました。一方の実方に対しては歌枕を見てくるように、と言って陸奥守に任命しました」と記しています。さらに任地で亡くなったことに関して、14世紀頃の成立といわれる『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』は、名取の道祖神(どうそじん)の前を通りかかった際、地元の人が忠告したのも聞かず、馬から降りずに通り過ぎ、礼を欠いたことから、神の怒りをかって落馬したためと伝えています。

そして死後、都恋しさに実方が雀となって天皇の住まいである内裏(だいり)の台所に現れたとするのが、建長(けんちょう)四(1252)年成立の説話集『十訓抄(じっきんしょう)』の記載です。

実方が亡くなったといわれている道祖神の近く、名取市愛島(めでしま)の竹林の中に、実方中将(さねかたちゅうじょう)の墓と呼ばれる小さな塚があります。傍(かたわ)らには実方の歌碑なども建てられ、平安時代の歌人を偲(しの)ぶにふさわしいたたずまいを醸(かも)し出しています。

実方を慕ってこの地を訪れた人の中には、歌人として有名な西行(さいぎょう)、その西行の跡をたどりながら奥の細道を旅した松尾芭蕉(まつおばしょう)などがおり、今なお実方の面影は、多くの人々を引きつけているようです。

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源融(みなもとのとおる)

政庁跡で上演された薪能(たきぎのう)「融」の写真

源融は、源氏物語の主人公である光源氏のモデルとされている人物の一人です。

融は弘仁(こうにん)十三(822)年、嵯峨(さが)天皇の第八皇子(おうじ)として生まれ、承和(じょうわ)五(838)年、源の姓を与えられ、同時に当時の天皇であった仁明(にんみょう)天皇の養子となります。このような経歴から、光源氏のモデルとみなされたのでしょう。

貞観(じょうがん)六(864)年三月、陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)に任命され、この時初めて陸奥国と関わりをもつことになります。その後大納言から左大臣へと昇進し、元慶(がんぎょう)八(884)年、陽成(ようぜい)天皇が廃位された時に皇位継承を望んだものの、融を超えて太政大臣に就任した藤原基経(ふじわらのもとつね)に退けられるなど、政治的には意に添わないことも多かったようです。一方、文化人としての名声は高く、鴨川のほとりに「河原院(かわらいん)」と呼ばれた広大な邸宅を構え、陸奥国塩竈の風景を模した庭を造りました。そこにはみちのくの歌枕のひとつ、「籬ノ島(まがきのしま)」もあり、さらには難波(なにわ)から海水を運ばせて藻塩(もしお)を焼かせるなど、風流かつ贅沢(ぜいたく)極まりない生活をしたと伝えられています。

こうした逸話は、その後の文学作品にも取り上げられ、能「融」のモチーフともなっています。按察使に任命された融が多賀城に赴任したかどうかは、定かではありません。しかし、みちのくの風景を愛(め)でた融の伝説は、いつしか地元にも根付きました。

市内には、通称「大臣宮(おとどのみや)」と呼ばれる小高い丘がJR東北本線高平踏切の南東にあり、かつてここには「大臣宮」と刻まれた石柱が立っていました。現在その丘は失われてしまいましたが、石柱は線路南に安置されています。それ以前には石の祠(ほこら)が祀(まつ)られていたとのことで、これは今、浮島神社に合祀(ごうし)されています。この石柱に刻まれた「大臣」こそ、左大臣源融ではないかとの言い伝えが江戸時代の記録に残っています。

また、塩竈市内には融ケ岡(塩竈市泉ケ丘)と呼ばれる場所もあり、多賀城近辺には融の面影が今なお生き続け、ひととき、私たちを王朝の時代へといざなってくれるかのようです。(写真は政庁跡で上演された薪能(たきぎのう)「融」)

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藤原朝かり(ふじわらのあさかり)

朝かりは、正しくはあさかりと書きますが、機種依存文字で正しく表示されない可能性が高いことからここでは「朝かり」と表記します。

藤原朝かり(ふじわらのあさかり)

多賀城を改修し、多賀城碑にその名を残した藤原朝かりは、奈良時代に政治の実権を握った藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)(恵美押勝)(えみのおしかつ)の四男として生まれました。

朝かりは、天平勝宝(てんぽうしょうほう)九(757)年、陸奥守として初めて記録に登場します。その後、按察使兼鎮守将軍(あぜちけんちんじゅしょうぐん)として、東北地方の全権を任された朝かりは、対蝦夷(えみし)政策を積極的に進めます。かつて大野東人(おおののあずまひと)が計画しながら果たせなかった雄勝城(おがちじょう)(秋田県)の造営を成し遂げたほか、太平洋側に桃生城(ものうじょう)(石巻市)を造り、蝦夷にとって重要な地点を奪うことに成功します。

これらの功績が認められ、天平宝字(てんぴょうほうじ)四(760)年正月、二階級特進した朝かりは、同年九月、朝鮮半島の新羅国(しらぎのくに)の使者が大宰府にやって来ると、対蝦夷政策の手腕を評価され、使者と接見する外交官に抜擢(ばってき)されました。朝廷では当時新羅征討の準備を進めており、また、派遣された使者が下級役人であったこと、さらに、しばらく連絡がなく礼儀を欠いていたことなどから、朝かりは強硬な態度をとり、使者を追い返してしまいます。

その後、重要ポストを歴任し、天平宝字六(762)年十二月一日、兄の真先(まさき)、久須麻呂(くずまろ)らとともに参議(さんぎ)となり、親子四人が国政を動かす地位に就くという異例の事態となります。

このような中、淳仁(じゅんにん)天皇を擁(よう)する仲麻呂、朝かり親子らに対抗するように、先代の天皇である孝謙上皇(こうけんじょうこう)は僧の道鏡(どうきょう)を重んじ始め、主導権をめぐる対立が表面化します。

天平宝字八(764)年九月、父の仲麻呂が朝廷に対し反乱を企てていることが発覚し、朝かりの兄・久須麻呂が陸奥国牡鹿(おしか)郡出身の牡鹿嶋足(おしかのしまたり)に討たれます。朝かりは仲麻呂らとともに平城京を脱出し、近江国府(おうみこくふ)(滋賀県)で再起を図ろうとしますが、国府手前の勢多(せた)橋を壊され進路を絶たれてしまったため、弟・辛加知(からかち)が国司を務める越前国(えちぜんのくに)(福井県)を目指そうとします。しかし、ここでも先手を打たれ、行く手をはばまれた朝かりらは、近江国高島郡(おうみのくにたかしまぐん)(滋賀県高島市)に退き抵抗を試みますが、父仲麻呂とともに命を絶たれました。仲麻呂の反乱発覚からわずか一週間足らずのことでした。

朝かりの名が刻まれた多賀城碑は、かつて偽物とされてきました。しかし、発掘調査により天平宝字六年前後に多賀城が改修されたことが明らかになり、考古学的に本物であることが立証され、朝かりが多賀城に残した功績も認められることとなりました。

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大伴家持(おおとものやかもち)

多賀城市文化センターにある大伴家持の歌碑の写真

平城宮(へいじょうきゅう)の東、佐保(さほ)と呼ばれる地で大伴家持(718?~785年)は生まれました。祖父の安麻呂(やすまろ)も父の旅人(たびと)も、ともに大納言という、名門の家柄です。

天平(てんぴょう)十七(745)年、初めて記録に登場し、越中国(えっちゅうのくに)(現富山県)の長官や兵部省(ひょうぶしょう)の次官などを歴任します。このころ中央では藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が絶大な権力を握り、古来よりの氏族は力を失いつつありました。大伴氏も例外ではなく、家持にとっても不遇な時代が続きますが、宝亀(ほうき)元(770)年、光仁(こうにん)天皇の時代になり、中央政界に復帰します。

宝亀十一(780)年、陸奥国(むつのくに)上治郡(栗原市)の長官であった伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が、伊治城(これはりじょう)で按察使紀広純(あぜちきのひろずみ)を殺害し、次いで多賀城を襲撃・放火するという大事件が起こり、陸奥国は混乱状態に陥ります。この時、事態の収拾を任されたのが家持でした。延暦(えんりゃく)元(792)年に按察使兼鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)、同三年には持節征東将軍(じせつせいとうしょうぐん)に任命され、蝦夷(えみし)政策の全権を担って多賀城に赴任します。延暦四年四月には緊急事態に備えるための方策を政府に要請するなど、依然不安定な多賀城近辺の復興と整備に力を注ぎます。しかし蝦夷に対しては積極的な制圧を行えないまま、同年八月二十八日、多賀城で亡くなりました。

ところが、死後二十日あまり後、長岡京(ながおかきょう)造営の責任者であった、藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺事件が起こり、家持も関与したということで、官位を奪われ、私財も没収されるなどの厳しい処分が下されます。名誉が回復し、位が元に戻るのは、桓武(かんむ)天皇の死の直前、大同(だいどう)元(806)年三月になってからのことでした。

家持は官人である一方、万葉集(まんようしゅう)に最も多くの歌を残した歌人であり、その編者ともいわれています。

新(あたら)しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)

めでたさの象徴である雪が降りしきるように、良いことが重なってほしいとの願いが込められたこの歌は、天平宝字(てんぴょうほうじ)三(759)年元日に家持が詠んだものです。この一首をもって万葉集は締めくくられました。この後、家持の歌は残されていません。

名門大伴氏の長として軍事的・政治的に大きな功績を残せず、官位においても祖父や父に及ばなかった家持ですが、万葉集の成立に果たした役割は計り知れず、その名を不朽のものとしています。

(写真は多賀城市文化センターにある大伴家持の歌碑「大伴の 遠(とお)つ神祖(かむおや)の 奥(おく)つ城(き)は 著(しる)く標(しめ)立て 人の知るべく」)

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百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)

日本最初の産金地である涌谷町黄金山神社

百済王敬福は、かつて朝鮮半島にあった百済国(くだらのくに)の王族の子孫にあたる人物で、文武(もんむ)天皇元(697)年百済国最後の王のひ孫にあたる百済王郎虞(ろうぐ)の子として生まれました。

敬福は、天平(てんぴょう)10(738)年陸奥介(むつのすけ)(陸奥国の次官)として記録に現れます。この時の陸奥守(むつのかみ)(長官)は、多賀城を創建し、鎮守府(ちんじゅふ)将軍の職も兼任していた大野東人(おおののあずまひと)でした。その後天平15(743)年には陸奥守となります。

天平21(749)年、陸奥国小田郡(涌谷町黄金山(こがねやま)神社周辺)で黄金が発見されたという知らせが都に届きます。当時、仏教の力で国を治めようとしていた聖武天皇は、東大寺の大仏建立を進めていましたが、完成を目前にして大仏に塗る黄金が不足してしまい、中国からの輸入まで考えていたようです。そのため、九百両の黄金が献上された時の天皇の喜びようは大きく、年号を天平から天平感宝(てんぴょうかんぽう)に改めたほどです。これにより陸奥守であった敬福は、官位が7階級特進する異例の出世を遂げました。

当時、越中国(えっちゅうのくに)(富山県)に赴任していた万葉歌人として有名な大伴家持(おおとものやかもち)は

「すめろきの 御世(みよ)栄えむと 東(あずま)なる

陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く」

と、黄金発見を祝しています。

その後敬福は、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱では反乱者を拘留(こうりゅう)し、恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)(ふじわらのなかまろ)の乱では、仲麻呂によってたてられた淳仁(じゅんにん)天皇を幽閉する任にあたるなど政治の表舞台で活躍します。

敬福の人柄について記録には、「性格は気ままで規則にとらわれず、たいへん酒食を好んだ。役人や人民がやってきて清貧のことを告げると、その度、他人のものを借りてまで望外のものを与えた。このため、しばしば地方官に任じられても家にゆとりの財産がなかった。しかし、その性分は物わかりがよく、政治の力量があった」と記されています。

政変・反乱が多かった激動の時代、これらに加担することなく無事生き抜いた敬福は、天平神護(てんぴょうじんご)2(766)年、69才で亡くなりました。

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大野東人(おおののあずまひと)

大野東人(おおののあずまひと)

大野東人(?~742年)は、多賀城を創建した奈良時代前半の武人で、多賀城碑にもその名が刻まれています。

東人は、壬申の乱で活躍した大野果安(おおののはたやす)の子として生まれ、武人であった果安の子らしく、和銅7(714)年、騎兵を率いて新羅(しらぎ)の外交使節を出迎えたという記事で、初めて記録に登場します。

神亀元(724)年、東人により多賀城が築かれますが、この年には海道(太平洋沿岸)の蝦夷(えみし)が反乱し、陸奥国の官人が殺害されるという事件が起きています。征討軍が派遣され、鎮圧に当たっていますが、軍の中に東人の名は見えません。しかし、後の征討に対する叙勲(じょくん)の際にはその名が見えることから、征討軍の要職に就いていたようです。

天平9(737)年には東北地方の政治と軍事の最高責任者であった東人は、多賀城を拠点に、雄勝(おがち)村(秋田県)を攻略して城郭を築き多賀城-秋田城間の連絡路を開こうとします。しかし、大雪が降るなど作戦は順調には進まず「城を守るのは人間であり、人を生かすには食糧が必要である。耕作の時期を失えば、何を兵士に給(きゅう)することができようか。さらに兵というものは利をみて動き、利益がなければ行動しない。それ故、軍を引き揚げて一旦帰り、今後を待って始めて城郭を作ろう」と多賀城へ引き返しています。東人が勇猛なばかりではなく、状況を的確に判断できる人物像であったことをうかがわせるエピソードといえるでしょう。

その後、都に戻った東人は、国政に参画しますが、天平12(740)年に九州で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱が起きると、大将軍として一万七千の兵士を率いて乱の鎮圧に向かいます。この乱の影響は大きく、聖武(しょうむ)天皇は東人に気を遣いつつも、乱の最中、伊勢方面へ行幸(ぎょうこう)し、平定後も、平城京へは戻らず恭仁京(くにきょう)(京都府)に遷都してしまいます。

翌年、東人は平城京の留守官に任じられましたが、天平14(742)年没しました。

東人は、東北地方の経営に積極的に取り組み、その礎(いしずえ)を築いた東北地方の古代史上、最重要人物の一人といえるでしょう。

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坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

征夷大将軍坂上田村麻呂(758~811)が活躍したのは平安時代の初めで、その主な舞台は現在の宮城県北から岩手県にかけてでした。当時、多賀城が治める陸奥国の北には、中央政府の支配に入らない蝦夷(えみし)の住む広大な地が広がり、その地を支配することは、政府の最大の目標でした。多賀城はその役割を担う機関でもあったのです。

支配を強化してきた政府に反発し、宝亀5(774)年、蝦夷が桃生城(ものうじょう)(石巻市)を襲ったのをきっかけに、約40年にわたる戦乱の時代が続きます。延暦10(791)年には10万という当時としては空前の規模の大軍が送り込まれ、田村麻呂は副将軍として初めて陸奥に足を踏み入れました。

その後、按察使(あぜち)・陸奥守(むつのかみ)・鎮守(ちんじゅ)将軍の三官を兼任、さらに征夷大将軍に任命され、対蝦夷戦争における最高責任者となります。そして延暦20年、ついに胆沢(いさわ)の首長阿弖流為(あてるい)・母礼(もれ)を降伏させ、長期にわたった戦争を終結に導きます。

数々の功績を上げ、大納言にまで昇進した田村麻呂は、弘仁2(811)年、平安京において、54歳の生涯を閉じました。立ちながら甲冑を身につけ、武器を携え、東、すなわち陸奥へ向かって葬られたといいます。また、その墓は国家の非常時には、まるで鼓(つづみ)を打つような、あるいは雷鳴のような音で警告を発したそうです。

死後も都と天皇を守るべく、厚い信頼を寄せられた田村麻呂とは、どのような人だったのでしょうか。記録には怒れば猛獣もたおれ、笑えば幼子もなつくと記され、180センチメートルの長身で赤ら顔、目は澄んで鋭く、黄金色のあご鬚が豊かであったといいます。

蝦夷との戦いを収束させた「英雄」田村麻呂のイメージは、後世生み出された多くの伝説によって、広く浸透していきました。また、京都の清水寺をはじめ、田村麻呂創建と伝える寺社が全国に存在し、その武勇はさまざまな形で受け継がれ、今に至っています。(写真は、坂上田村麻呂像・零羊崎(ひつじざき)神社蔵(石巻市))

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