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更新日:2022年2月8日

歴史の風化財レスキュー活動と「倉」編

「広報多賀城」でご紹介している「歴史の風」を転載しています。

歴史を通して発信される多賀城市の魅力をご紹介します。

倉のある風景~保存と活用~

八幡地区から移築した板倉

八幡地区から移築した板倉(南宮公園)

本市には、板倉・石倉・土蔵合わせて202棟の倉が現存しています。中でも主に穀物倉庫として使用されていた板倉が133棟と多く、純農村地帯の風景がしのばれます。気仙地方(現在の陸前高田市)に起源が求められる「繁柱(しげばしら)板倉」も確認されており、気仙大工とのつながりも考えられています。倉の建築年代は、江戸時代後半から昭和20年代までのものが半数以上を占めており、多賀城の原風景の中で営まれていた、歴史的な建造物といえます。

さて、市内にある大字名は、江戸時代にあった13の村の名前がもととなっています。安永3年(1774年)の記録を見ると、屋敷の数および人口が特に多いのが南宮・市川・八幡の3カ村であり、現存する倉の数の上位3地区と見事に一致します。

南宮・市川は、江戸時代の塩竈街道沿いにあり、仙台城下から鹽竈神社へ詣でる多くの人が行き来していました。街道に面した家々には板倉が設けられており、江戸時代以来の佇まいが今も良く残されています。

八幡は仙台藩準一家の家格を有した天童氏が拝領した地であり、かつては当主および家臣などの屋敷が立ち並んでいました。大正8年に発生した大火後には石倉が多く造られており、地域の辿った歴史を物語っています。

平成23年3月11日、東北地方を未曾有の大震災が襲い、本市でも多くの人的・物的被害を受けました。倉も例外ではなく、20棟以上が解体せざるを得ないほどの危機的な状況となりました。現在、震災からの復興を図るなか、より多賀城らしさを活かすために、山王・南宮・市川・八幡地区に残る板倉などを保存・活用する取り組みを始めました。また、南宮公園内には、八幡から移築した板倉があり、誰でも間近で見学することができます。

「倉のある風景」は、本市の歴史を垣間見ることのできる貴重な風景です。新しいものに移ろいがちな現在ですが、先人がつくり、今の暮らしの中で生き続けている風景も、末永く残していきたいものです。

海軍工廠のため移築された倉

市内で最大規模の板倉

市内で最大規模の板倉(伝上山地区)

多賀城海軍工廠(たがじょうかいぐんこうしょう)は、アジア・太平洋戦争のため航空機用の機銃や焼夷弾などを製造する目的で、昭和18年10月1日に開庁した軍需工場です。場所は多賀城の南東部にあたる八幡の沖区(中谷地、原、宮内)、笠神・大代地区であり、その面積は約496万平方メートルという、当時の多賀城村の約4分の1を占める広大なものでした。

海軍工廠建設にあたり、その用地内に住んでいた人たちは、用地外に移転することを余儀なくされました。この移転は家屋敷のみならず、墓地などを含めた大変厳しいもので、対象者は、八幡、笠神、下馬、伝上山、東田中をはじめ、仙台市、塩竈市、利府町へと移転し、中には北海道へ転居した人もいたということです。

ところで、この移転先となった地区ではそれぞれ板倉や石倉を確認しています。そして、八幡・下馬・伝上山・中央地区の倉の中には、海軍工廠用地内の地区から移築されたものもあるということが所有者からの聞き取り調査によって明らかになりました。

移築されたという倉は比較的規模の大きいものが多く、伝上山地区の板倉は、桁(けた)行き8.19メートル、梁(はり)行き3.77メートルという大規模なものです。約18畳分の広さは、市内で最大の規模となっています。

また、移築前と同じく、地面に直接石を置いて土台としたものも見られますが、コンクリートの土台に改修されているものも見られます。

このような板倉は、建設年代が海軍工廠建設以前にさかのぼると考えられることから、70年以上の歴史を持つ歴史的建造物です。さらに、本市におけるアジア・太平洋戦争の一こまを物語る歴史資料としても貴重です。

高崎・留ヶ谷・浮島の景観と倉

高崎地区での倉の調査風景

高崎地区での倉の調査風景

本市の中央部に位置する高崎・留ヶ谷・浮島の3地区は、現在は住宅地が広がる地域ですが、もともとは塩釜方面から延びる緩やかな丘陵の上にできた農村集落でした。

3地区での江戸時代以降の戸数と人口、家々が分布する場所など、昔の様子を調べてみることにしましょう。

はじめに、各地区での戸数と人口の推移を、江戸時代の安永年間(1770年頃)、明治8年、昭和11年の3つの時代順にみると、次のようになります。

 

地区\年代

安永年間
(1770年頃)

明治8年
(1875年)

昭和11年
(1936年)

高崎(村)地区

20戸
87人

20戸
154人

41戸
287人

留ヶ谷(村)地区

30戸
186人

34戸
275人

56戸
355人

浮島(村)地区

27戸
人口不明

32戸
215人

56戸
383人

 

 

ちなみに、現在の3地区の戸数と人口の平均は、1371戸で3475人です。これらの家々は、明治24年の地図でみると、高崎地区では多賀城廃寺跡と化度寺を取り巻くように点在しています。次に、留ヶ谷地区では、おもわくの橋付近から東北本線塩釜駅方面に向かう道路に沿って、その西側の丘の上に家々が点在します。また、浮島地区では、浮島神社の東側と県道の北側から法性院にかけて家のまとまりがみられます。

倉の分布調査によって、3地区で確認された倉の数は合わせて34棟ですが、それらの所在地は昔の集落の位置とちょうど重なります。

また、倉の種類は板倉が約9割を占めます。板倉は密閉性が高く断熱効果に優れているため、米などの穀物の貯蔵に適しており、その特質から、純農村地域であった3地区で広く採用されたと考えられます。

以上のように、本市で人口の増加が顕著になる昭和30年代以前の3地区の姿は、映画「となりのトトロ」で描かれているような、昔懐かしい農村の風景が広がっていたと想像されます。

新田の倉と農家のくらし

カイコと絹糸

(左)カイコ(仙台市歴史民俗資料館提供)(右)絹

多賀城市の前身である多賀城村は、明治17年(1884年)に13の村が統合してひとつの村になりました。その中の旧新田村は、七北田川の東岸に発たちした自然堤防(微高地)上に営まれた集落です。今回は、明治から昭和にかけての人々の暮らしぶりはどのようなものだったのか、倉と倉に保管されていた資料から探ってみましょう。

新田地区で確認された倉は18棟あり、そのうち土蔵が1棟で、そのほかはすべて板倉でした。建築年代がわかるものでは、江戸時代末期の弘化(こうか)4年(1847年)に造られたものが一番古く、明治3年、14年、25年と続きますが、大半は昭和に入ってから建築されたものです。

地区の中央部に位置する倉からは、糸取り器、糸車、機織り機(はたおりき)など養蚕(ようさん)に関係する道具が発見されました。

明治に入ってから宮城県が政策として養蚕を奨励し、多賀城村は、宮城郡内で旧七北田村などに次いで盛んだったようです。地元の方のお話によると、かつて新田地区にはカイコの餌(桑の葉)をつくる桑畑が広がっていたそうです。

当時、農家にとって養蚕業は貴重な現金収入源であり、「お蚕様(おかいこさま)」と呼んで繭(まゆ)になるまで大切に育てました。カイコの飼育には母屋の囲炉裏(いろり)のある板間を使い、その隣部屋では機織りをし、縁側(えんがわ)では糸取り器で生糸をつくっていました。

倉の中には、糸巻きに巻かれた絹(きぬ)糸も保管されていました。藍(あい)色と白色の2種類の絹糸があり、当地でも藍染が行われていた可能性を示しています。

このように、市内の倉には明治から昭和にかけての暮らしのようすを伝える資料が数多く残されています。大事にして後世に伝えていきたいものです。

旧塩竈街道と倉

旧塩竈街道と神輿

(左)倉のある旧塩竈街道(右)神輿

今回は旧塩竈街道沿いの倉についてお話します。旧塩竈街道は仙台城下から岩切を通り、多賀城市内の南宮、山王、市川を抜けて塩竈へ通じる主要な街道です。塩竈で水揚げされた魚介類を仙台城下へ輸送したり、仙台から陸奥総社宮、鹽竈神社に参拝するための重要な街道でした。この旧街道沿いでは64棟の板倉が発見されています。現在、市内で確認されている板倉が135棟あることから、その多さが際立っています。この街道が人々の生活に大きく関わっていたことがうかがえます。

調査を進めるうちに興味深いことがわかりました。現在、収蔵庫に収められている南宮神社で以前使われていた神輿には、多賀城の板倉を作ったと考えられる「気仙大工」の特徴がみられることです。気仙大工は陸前高田市で寺院の建築にも携わっていました。その寺院の角には屋根を支えるための垂木と呼ばれる木材を扇状に配置することが知られており、その扇状の配置が、この神輿の屋根にもみられます。これは、この街道に気仙大工の技術を持った大工がおり、その大工が神輿の制作に関わった可能性を示しています。

旧塩竈街道を歩いていると、さまざまな歴史に出会うことができます。岩切駅から倉のある街並みを抜け、多賀城跡や多賀城碑を見学して、陸奥総社宮・鹽竈神社を参拝するという伊たち家の代々当主や松尾芭蕉がたどった道を想像しながら歩いてみてはいかがですか。

 

八幡の倉と大火

地区別倉の数と種類

地区別倉の数と種類

多賀城市の南部に位置する八幡地区は、歌枕「末の松山」や「沖の井」などが所在しており、歴史豊かな地域のひとつです。また、江戸時代には天童氏の所領となるなど、古くからまち並みが形成されていたこともあり、市内でも有数の倉の集中地域でもあるのです。

グラフは、震災前における地区別の倉の数とその種類をまとめたもので、倉の数をみると八幡地区には35棟の倉があり、南宮の39棟に次いで2番目に多い数となっています。また、市川地区にも32棟あり、南宮、八幡、市川の3つの地区で市内の倉の約半数を占めています。

八幡地区の倉で最も特徴的なことは、石倉が多いことです。倉は建てる材料により、板倉、土蔵、石倉の3種類に分かれます。グラフを種類別にみると、八幡地区以外の地区では板倉が多く、石倉が少ない傾向であるのに対し、八幡地区には石倉が多いことがわかります。八幡地区にある35棟の倉のうち4割以上にあたる15棟が石倉です。また、市内全体の石倉の数が30棟ですから、実にその半数が八幡地区にあるのです。

その理由のひとつは、約100年前に起こった大火にあると考えられます。大正8年(1919年)4月に八幡のまちを襲った大火は、『多賀城町誌』に「全区殆ど全滅に瀕す。」と記されるほど大きな被害をもたらしました。当時の八幡地区の人々は、倉を再建する際に、燃えやすい木造の倉よりも、耐火性に優れた石倉を選んで建てたと考えられます。倉には、母屋からの延焼を避け、家財などを守る役割もあるので、とりわけ石倉を選んだのでしょう。

大火からの復興を目指す際にも、将来を見据えた視点が先人達にあったことがうかがわれます。

倉の建築年代と大工がわかる倉

梁に掲げられた棟札

梁に掲げられた棟札

現在市内で把握されている倉のうち、124棟で、建築された年代を知ることができました。内訳は江戸時代のものが15棟、明治から大正時代のものが66棟、昭和時代のものが43棟です。このうち、棟札や倉の柱材などに、工事の由緒や建築の年月、建築に携わった大工の名前などが記してあったことにより正確な建築年が判明した倉が26棟ありました。さらに棟札が確認できた倉は3棟のみで、ほとんどが柱材などに墨で書かれたものでした。
市内で最古とみられる倉は、市川地区にある板倉で天保6年(1835年)のものでした。そのほか江戸時代に建築された倉は弘化4年(1847年)、嘉永3年(1850年)、文久3年(1863年)のものなどがあり、明治時代では明治3年(1870年)、明治8年(1875年)に建築されたものがありました。一番新しい倉は昭和23年(1948年)のものでした。
年代が判明している倉のうち、年号のほかに大工や石工の名前が記されているものが16棟確認されています。なかには大工の居住地が記されているものもあり、それをみると山王や浮島などの旧多賀城村内、あるいは旧岩切村に、倉を建築する技術を持った大工がいたことがわかります。また、今回名前が発見された、市川村の大工棟梁高橋栄治、市川村齋三郎、高橋村の鈴木松蔵の3人は、多賀城市史に掲載されている資料「宮城郡村々諸職人渡世之者職道に付請書」に記載されている人物と同一と思われます。この発見は当時の職人たちの活動を知る上で、貴重な成果となりました。

市内所在の倉の分布と種類

 

 

板倉の構造

板倉の構造

本市ではこれまで、市内に所在する倉の建築学的・歴史的価値に注目し、分布や実態調査につとめてきたところですが、東日本大震災により傷んだ倉を解体したいとの意向を聞き、改めて実態把握と保全を目的として、市内全域を対象とした倉の調査を行いました。
その結果、200棟を超える倉を確認し、その分布は、南宮・八幡・市川・新田・山王・高崎・留ヶ谷地区など市内全域に広がっています。特に、芭蕉の辻(仙台市国分町)から鹽竈神社へと続く塩竈街道沿いの南宮・市川地区に集中し、また、江戸時代、仙台藩準一家に列せられた天童氏とその家臣が居住した八幡地区にも多くの倉が分布しています。さて、ひとくちに倉といっても、板材を組み合わせた板倉、方形に加工した石を積み重ねた石倉、壁を土や漆喰(しっくい)などで塗り固めた土蔵など、さまざまな種類があり、七割以上を板倉が占めています。
本市には、柱間隔が極端に狭く、柱と柱の間に板をはめ込んでいる「繁柱(しげばしら)板倉」に類似するものがあります。このような倉は、江戸時代の気仙地方(現在の陸前高田市)が発祥の地と言われる「気仙大工」の技術によるものと考えられており、これまで岩手県南から宮城県北に分布することが分かっていました。今回の詳細な調査で改めてこの形状の板倉を確認したことから「繁柱板倉」の分布が本市にまで及んでいた可能性がでてきました。市内の倉は、江戸時代からの伝統を現代まで受けついだ貴重な歴史的建造物と言えます。次号からは、各地域の倉と保管されていた資料についてさらに詳しく紹介していきます。

救出された資料

救出された資料

書籍「大日本史」(左上)屏風(左下)燭台(右)

東日本大震災後に救出された資料については、整理・登録活動を現在も継続しており、その総数は4,000点を超えました。
資料で最も多かったのは、文書・日誌類で、次いで書籍・新聞類、封書・葉書類でした。これらの資料は、全体の約70パーセントを占めます。続いて衣・食・住に関わるものとして飲食器、家具・調度品・婚礼用具・生産・生業の機織(はたお)り用具が多くみられました。今回は、これらの資料のいくつかを紹介します。
文書の代表的なものとして、「天童家文書」があげられます。天童家は頼澄の時に伊たち政宗に仕え、八幡村の領主となりました。被害を受けた文書には、同家に伝わる系図や小割帳(こわりちょう)などがありました。
旧大代村を南北に縦断する貞山運河の横断には、はしけ船が用いられていました。「渡辺家文書」には、明治になって橋を架けてほしいという村民から宮城県への請願が何度も提出された記録が残されており、村民の熱い思いがうかがえる資料です。
その他にも、明治時代の新田村絵図、日露戦争従軍日誌、第二師団参謀部作成2万分の1地図(宮城・福島県内)、日本海海戦や講和会議を含む河北新報の日露戦争関連記事、明治時代発刊の大日本史・論語・教科書などの書籍類、各地の写真集など、貴重な資料が数多くあります。
飲食器や婚礼用具には、盆・膳・椀・盃・角樽などがあり、結婚・出産などのお祝い事や法事などが各家で行われた頃の様子を今に伝えています。たんす、鏡台、屏風(びょうぶ)、扁額(へんがく)・掛軸などの家具や調度品は、それぞれの家庭の歴史を感じさせてくれます。
戦時関係では、軍服をはじめ軍刀、水筒、ゴーグル、出征兵士を送る幟(のぼり)などがありました。
生産関係では機織り用具があり、この資料からかつては市内でも養蚕(ようさん)が行われていたことがわかりました。この他、草切り機や縄ない機などの農具や堆肥などを運搬する荷馬車などもありました。

被災資料の応急処置

 

被災した文書

(左)被災した文書の修復前(右)修復後

震災から2ヵ月ほど経過した5月上旬、津波で浸水した住宅から江戸時代の文書や冊子が発見されました。いずれも濡れたままの状態で、中にはカビが生えているものもありました。このままでは劣化が進み、文字が読めなくなる恐れがあったため早急な処置が求められました。さらに、被災した倉の取り壊しによって、保管していた資料を震災ゴミとして破棄せざるをえない状況との情報も入ってきました。
これまで遺されてきた歴史資料が失われてしまう危険性がありました。そこで、被災した資料を保全するため、さまざまな専門家の助言を受けて、手探りの状態から文化財レスキューが始まったのです。
レスキューの対象となった文献・民俗資料などの多くは倉の中に保管されていたもので、中でも被害が大きかったのは水に浸かった文書などの紙資料でした。今回はその応急処置についてお話しします。
まず、救出した資料はできる限り現地で泥を除去しました。その後、アルコールを噴霧し低温で保管することで、腐敗やカビの繁殖を防ぎました。
5月下旬、一部の資料から腐敗臭がしたため、給水紙で水分をこまめに除去したほか、資料を水に浸して塩分や汚れを落とす処置を施しました。
これによって、多くの資料の劣化を抑えることができたのです。
しかしその中には、カビなどが原因で開かなくなってしまった文書などがあり、このようなものは東北芸術工科大学へ修復を依頼しました。
また、塩分をうまく取り除けなかった冊子などは、東北歴史博物館に依頼し、フリーズドライという特殊な方法で乾燥させました。こうして、展示できる状態にまで修復されたのです。
被災資料は、古くから伝わってきた価値に加え、震災の記憶も併せ持った貴重な文化財です。市の歴史を語る資料として後世に伝え、活かすことが、私たちの責務ではないかと考えます。

文化財レスキュー活動

 

倉の所在確認調査風景

倉の所在確認調査風景
(太宰府市の職員)

東日本大震災で被害を受けた市内の文化財については、震災後間もない5月中旬からその実態調査を行うとともに、文化財資料の保全を目的にレスキュー活動を行いました。

調査活動では、地震・津波による被害が甚大だった八幡・南宮・山王・市川地区に所在している板倉等の被害状況と歴史(文書等)・民俗資料の把握と保全を図ることとしました。このうち、板倉の所在調査については、その歴史的価値の重要性から、のちに調査対象地を市内全域に拡大しています。

調査体制は、当時、市職員が被災者支援業務に従事していたため、緊急性、専門性が必要との判断から、県外の市町村文化財担当職員(協力員)の協力をいただきました。協力依頼をした市町村は、福岡県太宰府市、神奈川県小田原市、東京都国分寺市と三重県明和町です。

調査期間は、5月23日~7月1日までの6週間を要しました。調査活動にあたっては、被災状況確認班を設置して建物解体や保管資料廃棄の有無を確認しました。また、倉に保管されていた民俗資料等を片付けながら搬出する調査・搬出班や津波で水損した文書を応急処置する保存処理班も設置して資料の保全に務めました。この活動は、他市町村からの応援職員をはじめ市民の皆さんのご支援、ご協力のお陰で無事に終えることができました。

この文化財レスキュー活動によって、所在が確認された倉は189棟を数え、レスキューされた資料は約4,000点におよびました。これらの資料は、当市の近世・近代の歴史を伝える大切な文化財であり、将来にわたり守り続けていきたいと考えています。

この文化財レスキュー活動の様子と寄贈された資料については、平成24年3月10日~6月10日まで「文化財レスキュー活動報告展(東日本大震災と多賀城市の文化財)」で紹介しています。

市内の文化財被害状況

石碑群の被害と館前遺跡の地割れ

(左)八幡居家前石碑群の被害(右)館前遺跡の地割れ

平成23年3月11日の東日本大震災によって、市内にある文化財も甚大な被害を受けました。被害の内容は、地震による建造物や石碑等の倒壊、津波による文書や民俗資料の水損など多岐に及んでいます。

それでは、具体的に主な被害の状況について述べていきます。

国指定特別史跡の館前遺跡では、東側斜面に地割れが発生しました。市指定文化財では、沖の井(沖の石)が津波により冠水し瓦礫や車両が流入するなどの被害を受けたほか、南安楽寺古碑群で3基の石碑が倒れました。

内陸部の歓満(かんまん)不動尊・阿弥陀(あみだ)堂(新田地区)、日光院(高崎地区)、陸奥総社宮・多賀神社・貴船(きふね)神社・荒脛巾(あらはばき)神社(市川地区)で社殿の一部に損傷が生じたり、石灯籠が倒壊する被害がありました。

沿岸部では、八幡(はちまん)神社に高さ約2mの津波が押し寄せ、社殿が被災した他、合祀されている萩原(はぎわら)神社や鳥居、境内の石碑も多数倒壊し、杉木立も全て枯れてしまいました。八幡地区の古碑群も津波で運ばれてきた車両や材木などによって横倒しになり、元どおりに復元することが困難な状態でした。一方、建造物も大きな被害を受けました。土倉・板倉が多数損壊し、沿岸部では、所蔵されていた歴史資料や民俗資料が津波で水損しました。さらに、多賀城海軍工廠(こうしょう)に関連する建物として現存していたものも、地震・津波により壁が崩れ、また、江戸時代に建設された貞山(ていざん)運河も津波により護岸が破壊されてしまいました。

以上、簡単に市内の文化財の被害状況について述べました。このような状況から、文化財の調査、保全を目的に文化財レスキュー活動を行いました。その中心となったのは、189棟に及ぶ「倉」であり、新たな歴史的建造物として注目されました。今回の「歴史の風」は、今回から12回にわたって文化財レスキュー活動と「倉」について紹介します。

お問い合わせ

教育委員会事務局文化財課文化財係

 〒985-8531 宮城県多賀城市中央二丁目1番1号

電話番号:022-368-5094

ファクス:022-309-2460

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