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更新日:2017年5月24日

歴史の風特別史跡指定50周年特集

「広報多賀城」でご紹介している「歴史の風」を転載しています。

平成28年は、昭和41年に多賀城跡と多賀城廃寺跡が特別史跡に指定されてから50年という節目の年にあたります。これを記念して、関連シリーズをお届けします。

多賀城跡の魅力

 

六月坂周辺

塩竃街道と竹垣、多賀神社

 

 

多賀城は、古代国家が東北地方に設置した出先機関の中心であり、東北地方経営にかける古代国家の強い意思を反映した遺跡です。大正11年に史蹟、昭和41年には特別史跡の指定を受けました。

 

多賀城跡は、地下に眠る遺跡としての重要さに加え、主に多賀城廃絶後に形成され、現在目にすることのできる市川の集落、塩竈街道、石碑、社寺、起伏に富んだ地形、さらには古くからの言い伝えなどさまざまな要素が相まって、独自の景観が形成されています。

塩竈街道沿いにある弘安(こうあん)10年(1287年)の年号のある板碑は「伏石」という名で知られています。この名のいわれについて、仙台藩4代藩主が奥州一宮鹽竈神社を参詣する道筋にあたることから、畏(おそ)れ多いこととして、立っていた石を伏せたという伝承が伝わっています。

また同じく街道沿いには陸奥国延喜式内社(えんぎしきないしゃ)百社を合祀(ごうし)したとされる陸奥総社宮をはじめ、多賀神社、貴船(きぶね)神社、多賀城神社が鎮座し、信仰の様子を今に伝えています。

江戸時代に発見され「壺碑」の名で有名になった多賀城碑周辺には、「つぼのいしぶみ」道標、「御即位祈念風致林」碑、「芭蕉翁礼讃碑」などの石碑が建てられており、多くの人々が「壺碑」に対し、心を寄せていたことがうかがえます。

さらに城内にある市指定保存樹木は、いずれも樹齢数百年で、自然景観を象徴するものとなっています。

このような歴史・文化・景観を保護・継承してきたのが市川集落の人々でした。集落は塩竈街道に沿って営まれ、現在でも家屋や倉、生垣、その周りに広がる畑は、江戸時代以来の面影を色濃く残しています。明治初年の絵図に描かれた畑や水田で今でも農業が営まれており、農村景観が広がっています。

近世以降に育まれてきた生活に密着したさまざまな要素が醸し出す景観、特別史跡としての多賀城の価値、これらが渾然一体(こんぜんいったい)となっている状況が、多賀城跡の魅力ではないでしょうか。

古代都市の発見

城外のイラスト

古代都市のイメージ(イラスト)

 

 

昭和55年、多賀城跡調査研究所は、城外における遺跡の状況を把握するため、南門の南西約280メートルの地点で発掘調査を行いました。大規模な建物や井戸とともに、南北に延びる運河状の大溝やバラス敷きの南北道路を発見したこの調査は、城外におけるまち並みの存在を初めて示したものでした。

 

その後、昭和58年には多賀城の西側に位置する山王遺跡の調査で、後に東西大路と命名される大規模な東西道路を発見し、平成元年度から開始した三陸自動車道関連の調査では、東西・南北道路が広範囲に延びている状況を確認しました。各道路の間隔はおおよそ100メートル(約1町)で、多賀城の南面一帯にはそのような直線道路による、方格地割(ほうかくじわり)の存在が分かってきました。その基準線となったのは、多賀城政庁の中軸線上に建設された幅23メートルの南北大路と、多賀城南辺から5町南に建設された幅12メートルの東西大路で、多賀城南面の地割りが、多賀城の強い影響下で設計されたことが明らかです。

方格地割内は基本的に宅地で、役人、庶民、兵士などさまざまな人々の住まいが立ち並ぶ「まち並み」を形成し、その広がりは多賀城南面の東西約1.5キロメートル、南北約0.8キロメートルに及んでいます。

このまち並みの中では、住居となる建物のほとんどが掘立柱式であり、竪穴住居が一般的な東北地方の集落とは形態・外観ともに異なるものだったようです。各区画からは食器や貯蔵容器など生活の道具が大量に見つかっており、中国産の高級な陶磁器をはじめ東海地方や京周辺で焼かれた上などな陶器が少なからず発見されることから、物資の流通が盛んで、多量のモノが消費される場であったことを物語っています。また、都で行われるまじないや祓(はら)いの道具も数多く発見されており、このまち並みで暮らす人々が、都と同様の生活様式を取り入れていたことを示しています。

このようなまち並みは、大宰府や伊勢の斎宮(さいくう)(三重県)と同じ、地方の「都市」と評価すべきものであり、その発見は、50年以上に及ぶ多賀城の調査の中で、特筆すべき成果と言うことができます。

覆された多賀城像

 

多賀城南辺築地

多賀城南辺築地跡
かつては土塁と考えられていました(発掘調査開始前の風景)

 

 

昭和44年、多賀城跡調査研究所が設立され、計画的・継続的な発掘調査が行われるようになると、多賀城の実態が急速に明らかになっていきました。

 

政庁地区は当時、内城と呼ばれ、古くから建物の礎石が露出し、その周囲には約100メートル四方に巡る土塁状の高まりの存在が知られていました。発掘調査により、奈良時代から平安時代に及ぶ多数の建物跡の存在が確認され、それらを時期別に整理すると、各時期ともほぼ同様の建物配置によっていたことが分かりました。すなわち中心となる正殿が中央やや北側に位置し、その前方には広場を挟んで東西の脇殿(わきでん)が向き合い、南辺築地の中央には南門が開くというように、左右対称の建物配置となっています。また、土塁状の高まりは築地塀であることが判明し、築地塀で囲まれた内城の在り方は、大宰府の都府楼や近江国府の政庁と基本的に同じであり、地方官衙(かんが)(役所)の中枢部の構造に極めて類似することが明らかになっていきました。多賀城については、当初蝦夷に対する軍事的な前線基地として設置されたものが、蝦夷征討が進むに従って拡大整備され、鎮守府が置かれて、やがては陸奥国府も併せ置かれるようになったと考えられていましたが、発掘調査の成果から導き出された見解は、このような定説に見直しを迫るものでした。

また、多賀城の性格に関わる大きな問題として、外郭線の構造があります。外周に巡らされた土塁状の高まりは、当初からその存在が注目されていましたが、発掘調査によって瓦葺きの築地塀であることが確認されました。約900メートル四方に及ぶ外郭線が、軍事施設に相応しい土塁ではなく、宮城(きゅうじょう)や大寺と同様の築地塀であったということは、内城が実は政庁であったという事実とともに、多賀城の性格が基本的には官衙であることを裏付ける極めて重要な発見となりました。

日々成果を上げる多賀城跡の発掘調査は、従来の定説に真っ向から対立するものとなり、その是非をめぐって東北地方の古代史に関わる議論が盛んになっていきました。しかし、城柵に対する偏見は根強く、それを覆していくことは容易ではありませんでした。

発掘調査の開始

 

多賀城跡鍬入れ式

多賀城跡第一次調査で挨拶する伊東教授

 

 

昭和30年から34年にかけて仙台市木ノ下にある陸奥国分寺跡を発掘し、伽藍(がらん)の主要部分を確認するという注目すべき成果を上げた東北大学の伊東信雄は、その経験と実績をもとに、昭和35年から「多賀城跡附寺跡」の学術調査を開始しました。多賀城跡の調査は、大正10年、内務省史蹟名勝天然記念物調査会考査員だった柴田常恵(しばたじょうえ)が、城跡内を入念に踏査し、土塁状の高まりなどを正確に記録した測量図を作成しましたが、地表面上の観察という限界があるものでした。伊東は、多賀城の研究には発掘調査によって遺跡の実態を正確に把握する必要があると考えたのでした。

 

初年度は、多賀城跡と廃寺跡の航空測量を行って詳細な実測図を作成し、昭和36年・37年に廃寺跡の発掘調査を行いました。先に廃寺跡の調査を行ったのは、多賀城跡が農村地帯にあったのに対し、廃寺跡は東側から宅地化の波が迫っているという周辺環境を考慮してのことだったようです。

調査期間は、いずれも夏期の1カ月程度と短いものでしたが、金堂、塔、講堂など10棟の建物跡を発掘し、その位置と規模を明らかにするという大きな成果を上げています。

多賀城政庁跡の発掘調査は昭和38年から行われ、第1次調査も廃寺跡と同様夏期の1カ月余りの期間内で行われました。調査当時「内城(ないじょう)」と呼ばれていた政庁跡は、昭和35年の測量で東西約103メートル、南北約130メートルの長方形であり、規模の点で大宰府政庁跡との類似に気付いていました。

調査の結果、想定どおり、内城の中心に位置する土壇上で正殿跡を確認し、その南北中軸線上で中門(政庁南門)や後殿を発見するという成果を得ることができました。伊東は、この第1次調査の成果をまとめた『昭和三十八年度多賀城跡発掘調査概報』の中で、早くも、「内城」の建物配置が藤原宮、平城宮、平安宮、大宰府のそれと類似する点に注目し、特に大宰府との類似性を指摘しています。宮城(きゅうじょう)の朝堂院(ちょうどういん)の殿堂配置にならったものが、多賀城に存在したという事実は、城柵を単なる軍事施設と見なす従来の学説に疑問を呈し、その後、東北の古代史研究に大きな影響を与えました。

昭和前期の多賀城跡

 

後村上天皇御座所碑

昭和9年に建立された「後村上天皇御坐之處」碑。

 

 

江戸時代の終わり頃、安政四年(1857年)に成立した『仙台金石志』に、多賀城政庁跡に関する記載があります。政庁跡は、今畠となっており、その中に畠とはならず荻(おぎ)や蘆(あし)が茂っている場所があり、地元市川村民は「御座の間」の跡と呼んで、畏(おそ)れ多い所と言い伝えているというものです。「御座の間」とは一般的には貴人のいる場所という意味で使われる言葉ですが、市川村の人々が、具体的にの居所を指してそう呼んでいたのか、記録からは伺うことができません。

 

そのような「御座の間」の性格付けを明確にしたのが国学者大槻文彦でした。大槻はまず明治33年(1900年)に発表した「多賀国府考」において多賀城の変遷を説明し、多賀城が「多賀国府」と呼ばれてからも、市川村の地にあり続けたと主張しました。そして明治44年「多賀城多賀国府遺蹟」において、政庁を「牙城(がじょう)」と呼び、周囲に土塁を巡らせ、その中央に義良(のりなが)親王、北畠親房(きたばたけちかふさ)、顕家(あきいえ)の居所があることから、「御座の間と称していたと結論付けました。義良親王とは、のちの後村上天皇です。こうした大槻の見解は、国家主義的な風潮と結びつき、多賀城は南朝方の拠点として、天皇ゆかりの「聖蹟(せいせき)」とみなされるようになっていきます。

昭和9年、建武中興(けんむのちゅうこう)600周年にあたるこの年の4月14日、多賀城跡において記念祭が行われました。政庁跡には遥拝所(ようはいじょ)や慰霊祭場(いれいさいじょう)が設けられ、第二師団長代理をはじめとする関係者や地元小学校の児童など約千人が参加したということです。山王小学校に残されている同日の学校日誌にも、尋常4年以上の児童が建武中興六百年宮城県記念祭に参加したことが記されています。日誌によればこの日の天候は晴れ気温は約15度でした。こうした気運の盛り上がりの中、多賀城神宮創建期成会が発足し、宮城県に神宮建設の陳情を行うなど積極的に運動を起こしましたが、神宮建設は実現せず、結果的に史跡の破壊を免れることになりました。しかし一方では、多賀城跡の正しい歴史認識に立ったものではありませんでしたが、その時代の歴史的価値観から重要な史跡とみなされ、保存の対象となっていたこともまた事実でした。

平城宮跡・太宰府跡の保存

 

大宰府政庁跡

大宰府政庁跡、通称都府楼跡には、大宰府を顕彰する3基の石碑が建てられています。

 

 

平城京は和銅3年(710年)、藤原京から移された都で、その後、約70年間、日本の中心として繁栄しますが、延暦3年(784年)の長岡京遷都後ほどなく田地と化し、都の跡は土に埋もれてしまいました。平城京跡の研究が始まるのは江戸時代の終わり頃で、津藩(現在の三重県)の飛び地古市(ふるいち)奉行所の役人だった北浦定政(きたうらさだまさ)が自ら測量を行い嘉永5年(1852年)「平城宮跡大内裏跡坪割之図」を完成させます。これは平城京の条坊を復原した画期的なものでした。明治に入ると、建築史家関野貞(せきのただし)が、田の中に残る小高い土壇、通称「大黒(だいこく)の芝」が大極殿(だいごくでん)の基壇であることを発見し、地元新聞に発表しました。こうした関野の研究成果を知った地元の植木職人棚田十郎(たなだかじゅうろう)は平城宮跡の保存運動を起します。がてそれは保存会の結成へとつながり、以後、会による保存活動へと移りますが、多くの障害が生じ、棚田嘉十郎は非業の最期を遂げることになりました。しかしこの後、平城宮跡はほとんどが国有地となり、大正11年(1922年)、平城宮大極殿朝堂院跡が史跡指定されました。昭和27年には特別史跡となり、指定範囲も大きく拡大し、現在に至っています。

 

一方、奈良時代、西海道(さいかいどう)諸国(九州全域)を統括し、大陸との外交窓口であった大宰府は、平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱における藤原純友(ふじわらのすみとも)の兵火により焼亡したものの、時をおかずして再建されした。大宰府の中心である政庁が廃絶したのは11世紀後半頃と考えられています。巨大な礎石だけを残し、地下にうずもれてしまった大宰府政庁、通称楼(とふろう)について、福岡藩士で、国学者でもあった青柳種信(あおやぎたねのぶ)は文政年間(1818年から1829年)に著した『筑前国続風土記拾遺』の中で多数の礎石が残ることや、福岡藩がそれらの保護対策を講じていたことを記しています。大宰府の保護の歴史はここに始まり、大正10年(1921年)に史跡、昭和28年に特別史跡に指定されました。

明治時代の保存と管理

 

多賀城古址の図

多賀城古趾の図

 

 

多賀城跡に対する認識や保護活動は、江戸時代に始まりました。当初多賀城政庁跡のみを対象としたものでしたが、18世紀後半、地元市川村肝入が仙台藩に提出した資料には、政庁地区を本丸、多賀城跡の外郭線を三の丸と捉えるなど、現在の多賀城跡と同様の範囲を遺跡として把握していたことが分かります。

 

明治22年、地元市川村住民が「多賀城古址の図」を印刷・刊行しました。これにはおおよその地形図の上に礎石や築地の高まりなどが記され、今日の地表面観察や発掘調査成果とほぼ一致しているという評価が与えられています。この絵図は明治9年、天皇の東北地方視察の際に作成・提出した図面をもとに作られたもので、絵図の上部に作図の経緯が記されています。そこには、製作者自身、市川村で生まれ育ち、城跡の実態を確かめようと歩き廻り、数十年城跡の境界線捜索に従事し、ようやく明治8年に絵図としてまとめることができたとあります。そして明治9年6月、東北視察で訪れた天皇に奉献した絵図に手を加え、城跡の来観者の求めに応ずるため刊行されました。一般に販売されたこの絵図は、多賀城跡を分かりやすく紹介する上で大きな役割を果たすとともに、研究者にも広く採用されました。

一方、天皇の視察を期に、記念碑を建てようという動きがあることを、政庁地区の土地所有者が耳にします。そして、そのような場所を私有するとに恐縮し、土地を献上して、永く古城として保存してもらいたいと、宮城県に対し願書を提出しました。視察から5カ月後の明治9年11月16日のことで、その面積は524坪、政庁地区の中心部を含む約7分の1に相当します。この願いは翌明治10年11月6日に聞き届けられました。

さらに明治31年になると、献上者の子孫はじめ2名が、「多賀城古跡官有地無料取締願」を提出しています。これは、多賀城古跡において近年、見学者が瓦を掘り出すなど、古跡を荒らしているので、無料で取り締り、礎石や芝などの散乱を防ぎたいということ、そして私費により古跡はもちろん通路などの清掃を行い、見学者の便宜を図りたいという内容でした。

大正8年、「史蹟名勝天然紀念物保存法」が制定され、大正11年10月、奈良の平城宮跡などと共に多賀城跡は「多賀城跡附寺跡」として史蹟指定を受けました。

 

江戸時代の多賀城跡

 

多賀城政庁跡石柱

多賀城政庁跡に立つ「多賀城趾」と刻まれた石柱は大正4年に建てられたものです。

 

 

遺跡としての多賀城跡が初めて記録に登場するのは延宝5年(1677年)の『仙台領古城書立之覚(こじょうかきたてのおぼえ)』です。その中では「奥州国司館(おうしゅうこくしのたち)」、大野東人(おおののあずまひと)の居城であると記されています。これは万治・寛文年間(1658年から1672年)発見された多賀城碑の影響が反映された結果と考えられますが、中世城館跡との区分は明確ではなく、遺跡の範囲も政庁地区の広さとほぼ同じとなっており、かなり限定な捉え方だったようです。その約100年後の安永3年(1774年)『市川村風土記御用書出(ふどきごようかきだし)』になると、大野東人の居城という認識はそのまま、本丸(政庁地区)・二の丸・三の丸(多賀城外郭)という記載から、多賀城跡をかなり広い範囲として把握するようになました。さらに本丸・二の丸には礎石が残り、時折、瓦も掘り出されると記すなど、多賀城跡に対する観察が進んでいたことがうかがえます。その半面、本丸などという表現近世の城館と同様の捉え方でした。

 

一方、多賀城廃寺跡については、延享2年(1745年)『塩竈社記(しおがましゃき)』の記事が最初で、多賀城跡の東、高崎の地にあった大社の跡と記されています。その後、安永3年の『高崎村風土記御用書出になると、多賀城と同時期の七堂伽藍(しちどうがらん)があったと記載されるようになりました。風土記御用書出はいずれも地元の肝入(きもいり)が藩に提出したもので、江戸時代の半ばにはそれぞれの遺跡に対する認識が深まっていたことがわかります。さらに幕末も近い頃の記録には、政庁地区一帯は畑となっていたものの「御座間(ござのま)」と呼ばれる一画は畏(おそ)れ多いところとして耕作されなかったこと、城内の石碑や礎石などを村人が外に持ち出されないよう取り締まっていたことなども書かれています。

このような遺跡に対する認識や、住民たちによる保護意識の高さが、後の多賀城跡史跡指定につながる大きな要因となっていきました。

お問い合わせ

教育委員会事務局文化財課文化財係

 〒985-8531 宮城県多賀城市中央二丁目1番1号

電話番号:022-368-1141(内線:571・572)

ファクス:022-309-2460

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