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更新日:2022年2月22日

史都の道しるべ

過去から現在まで息づいてきた多賀城の歴史。このページでは、日常生活の中でも目にすることができる歴史をシリーズでご紹介します。

板倉(いたくら)

板倉とは、火災による家財や穀物の類焼を防ぐため、母屋から離れた場所に建てられた木造の倉のことです。断熱性、気密性に富んでいるのが特徴で、現在も苗を作るための種籾や自家用の米の貯蔵、冠婚葬祭用の道具の収納などに利用されています。

司馬遼太郎の『街道をゆく』「仙台・石巻」の多賀城跡へ向かう途中の一節に、板倉について次のように記されています。

「途中、いくつかの村落を通った。路幅は、村道といった感じのもので、両側に古い農家がいくつも残っていた。蔵がめずらしかった。外壁が、ふとい材の柵でかこわれているのである。

多賀城の前身は、柵だったろうと思われるが、形のいい柵組みの蔵をいくつか見てゆくうちに、ひょっとして古代の柵が、パターンとして記憶伝承されたのではないかという妄想がつい湧いた。」

板倉の構造は、柱の間隔を極端に狭くし、その間に板をはめ込んだもので、あたかも柵で囲われているように見えます。古代の多賀城との関わりはありませんが、多賀城周辺の板倉の特徴を見事に表現しているものと言えます。

このような板倉は、江戸時代から大正時代にかけて建築されたものが多く、岩手県南から宮城県北の地域で特徴的に見ることができるもので、「気仙大工(けせんだく)」が大きく関わっていたと言われています。

特に、塩竈街道が通る南宮・市川地区では、現在でも多くの板倉を見ることができ、街道のたたずまいと相まって情緒あふれる景観を醸し出しています。

木材を多く使用して建築された板倉は、現在ではとても貴重で再現し難いものとなりつつあります。この板倉のある景観を後世に残し、板倉の魅力を発信することで、今後のまちづくりに大きく貢献できるものと言えるでしょう。

浮島

浮島は、市内に伝承している歌枕のなかでも、末の松山や壺碑と並んで有名なものの一つです。

歌枕の浮島については、平安時代の前期に活躍したといわれている歌人、小野小町(おののこまち)の歌に見えることから、9世紀の中頃には歌枕と成立していたと考えられています。

また、10世紀のはじめ頃には、屏風絵(びょうぶえ)の題材でもあったことが知られています。これは、伊勢神宮に仕えた皇女である斎宮(さいぐう)が所持していたものに、各国の名所を描かせた屏風があり、「うきしま」もそこに描かれていたことが、和歌の詞書(ことばがき)に見えていることからわかります。

11世紀初めに著された和歌の名所の手引き書である「能因(のういん)歌枕」には、現在本市にある歌枕のうちで唯一、「うきしま」が記されています。著者である能因は、みちのくを旅して多くの歌を残し、西行(さいぎょう)など後の歌人に多大な影響を与えた人物です。

さらに同じ頃に成立した清少納言(せいしょうなごん)の「枕草子(まくらのそうし)」(三巻本)第190段には「島は八十(やそ)島、浮島、たはれ島、絵島、松が浦島、豊浦(とよら)の島、籠(まがき)の島」と記されています。

歌枕の多くは、その存在が不明確なものが多いと言われていますが、承保(じょうほう)から承暦(じょうりゃく)年間(1074~1081)、陸奥国の長官であった橘為仲(たちばなのためなか)は、浮島に行き、浮島神社を詠んだ歌を残しています。

また、12世紀の文書集である『朝野群載(ちょうやぐんさい)』においても浮島神社の存在を確認することができ、11世紀後半以降、実際に浮島があったことがわかります。

しかし、鎌倉時代になると実際の景色や情景を詠んだ歌は一つも見えなくなります。

その後、戦国期の留守分限帳(るすぶんげんちょう)に浮島村の記載が見え、実際にある場所として再び登場します。

江戸時代に入り、仙台藩による文化政策が進められるなか、浮島も歌枕として再整備されていきます。

歌枕をたずねてみちのくを旅した松尾芭蕉(まつおばしょう)の紀行文『おくのほそ道』に浮島は記載されていませんが、芭蕉は末の松山、沖の井、野田の玉川、おもわくの橋とともに、浮島に立ち寄っていたことが、随行した弟子の河合曾良(かわいそら)の『曾良旅日記』には記されています。

▲国府多賀城駅の北約300mのところにある小高い丘が歌枕「浮島」で、浮島神社が鎮座しています。

野田の玉川もわくの橋

野田の玉川は、塩竈市の大日向に源を発し、市内留ケ谷を通り砂押川へとそそぐ小さな川です。

平安時代の歌人能因法師(のういんほうし)の

ゆふさればほ風こしてちのくのだの玉河鳥なくなり
『新古今和歌集』

という歌に代表されるように、古来より多くの歌に詠み込まれ、六玉川(むたまがわ)の一つに数えられており、舞踊や浮世絵などの題材にもなっています。

塩竈市玉川の民家の一角には、能因法師の歌碑が建てられ、その裏には塩竈の俳人により

玉川やうた流るる月雨

という句が刻まれています。

また、この川には、平安時代末期の歌人西行(さいぎょう)の

ふまゝうきみぢのにしきりしきてともかよはぬもわくのはし
『山家集』

という歌で有名な歌枕「おもわくの橋」があります。

江戸時代の仙台藩の儒学者(じゅがくしゃ)佐久間洞巌(どうがん)の著書「奥羽観蹟聞老志(おううかんせきもんろしう)」には、天和(てんな)4(1684)年宮城郡の名所旧跡を巡視したところ、おもわくの橋が地元の人々により、阿倍松橋(あべのまつはし)と呼ばれていたことが記されています。さらに、洞巌が訪れたときに楓(かえで)がないことを惜しみ、藩に報告したところ、橋の周辺に5株、東の小山には多くの楓が植えられ、22年後再び訪れると、地元の人々は橋を「紅楓(もみじ)橋」、小山を「紅楓山」と呼ぶようになっていたことが記されています。

現在、当時の楓を見ることはできませんが、野田の玉川のほとりには多くの楓が植樹され、その面影をしのぶことができます。

六玉川(野田の玉川以外)

  • 調布(ちょうふ)の玉川・・・東京都多摩川
  • 野路(のじ)の玉川・・・滋賀県草津市
  • 井手(いで)の玉川・・・京都府井出町
  • 三島(みしま)の玉川・・・大阪府高槻市
  • 高野(こうや)の玉川・・・和歌山県高野山付近

沖の井

おきのゐてをやくよりもしきはこしまべのかれなりけり
小野小町「古今和歌集」
わが袖は干に見えぬの石のこそ知らねくまもなし
二条院讃岐「小倉百人一首」

末の松山の南、八幡二丁目の住宅地に囲まれた一画、池とその中の大きな岩が目をひきます。ここが、冒頭に記した平安時代の歌人、小野小町(おののこまち)、二条院讃岐(にじょういんさぬき)の歌にちなむ歌枕「沖の井(沖の石)」です。昭和四十七年には市の文化財にも指定され、本市を代表する名勝のひとつでもあります。

沖の井は、現在市内にある多くの歌枕とともに、江戸時代、仙台藩四代藩主伊達綱村(だてつなむら)の時に、歌名所として再整備されました。

安永三(1774)年、仙台藩領内の各村が藩に提出した「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」の八幡村の記事には、名所として「奥の井(おくのい)」「都島(みやこじま)」「奥の井の里」「末の松山」が挙げられています。ここに見える「奥の井」とは「沖の井」のことです。

そして「風土記」の記載からは、寛文(かんぶん)九(1669)年に、八幡村の肝入(きもいり)が、沖の井を保護するため、藩から「奥井守(おくのいのもり)」に任命され、以後代々の肝入がその役を引き継いで保護していたことがわかります。この後も現在に至るまで、沖の井は地元の人々によって守り続けられてきました。

江戸時代に書かれた書物に「池の中に珍しい岩が折り重なっている」と表現された「沖の井」の姿は、今もその名残をとどめており、「末の松山」とともに、江戸時代の人たちが見た風情を今日に伝えています。

末の松山

多賀城市八幡二丁目の宝国寺(ほうこくじ)裏手に、推定樹齢480年、高さ19メートルの二本のクロマツがそびえています。保存樹木に選ばれているこの松がある場所こそが歌枕として名高い「末の松山」(市指定文化財)です。

歌枕とは、歌に詠み込まれ、有名になった歌名所のことをいいます。

日本最古の勅撰(ちょくせん)和歌集(天皇の命令を受けて編纂された和歌集)である「古今(こきん)和歌集」(延喜(えんぎ)五=905年成立)に初めて登場し、以後、みちのくを代表する歌枕として、数多くの歌に詠まれてきました。

主な歌をいくつか、ご紹介しましょう。

きみをおきてだし心をが持たばの松山もこえなむ
「古今和歌集東歌」
うらなくもひけるかなりしをより波はえじ物ぞと
「源氏物語」
ちぎりきなたみにそでをぼりつつゑのまつ山みこさじとは
清原元輔「後拾遺(ごしゅうい)和歌集」

いつごろからここが末の松山と呼ばれるようになったのでしょうか。安永三(1774)年、八幡村八幡社別当寺末松山般若寺の記録には、延宝(えんぽう)年中(1673~1680)頃までこの寺に古鐘があり、そこに刻まれていた銘文から、鎌倉時代の永仁(えいにん)七(1299)年にはすでに、現在地付近に定着していたことがわかります。

市内には壼碑、末の松山、沖の井、おもわくの橋など歌枕が数多くありますが、これは、江戸時代、仙台藩四代藩主伊達綱村が名所旧跡を調査し、古来からの歌枕を整備・保護した結果です。その際、早くからこの地に定着していた「末の松山」を核として整備がなされました。

みちのくを代表する第一級の歌枕として、また本市にとってかけがえのない名勝として、末の松山は、この地で700年にわたる歴史を刻んでいます。

末の松山を訪れた芭蕉は、恋愛模様の歌枕の代名詞となっている末の松山と、目の前にある墓地を見て、波が末の松山を越さないくらいかたい契りを交わしても、いずれは墓に入ってしまうものだと、世の無常を「おくのほそ道」に記しています。

八幡(やわた)

八幡は、みちのくを代表する歌枕「末の松山」や「沖の井」があり、江戸時代には松尾芭蕉が訪れるなど市内でも歴史を偲(しの)ばせる名所・旧跡が色濃く残る地域です。

八幡の地名は、八幡(はちまん)神社があったことに由来することが安永三(1774)年の『風土記御用書出(ふどきごようかきだし)』に記されています。八幡神社は当初、末の松山の西方にありましたが、中世に八幡氏がこの地に居館を構えたため、現在の宮内の地に移ったといわれています。

江戸時代になり八幡を所領としたのが天童氏です。天童氏はもと出羽国天童城主でしたが、最上氏と対立したため陸奥国宮城郡に移り、その後伊達政宗に仕え、仙台藩準一家に列せられました。天童家に伝わる天和元年(1681)屋敷絵図の写しによると、天童氏を中心にその家臣団の屋敷割りが描かれており、約1kmに及ぶまち並みが形成されていたことがわかります。

この絵図に描かれたまち並みは、江戸時代以来大きく変化することなくその面影を現在まで伝えており、「末の松山」「沖の井」といった歌枕やまちのはずれの供養碑などとともに、八幡の歴史的景観を醸し出しています。

(JPG:3,349KB)

▲宮城郡八幡邑天童氏屋敷ならびに家中・足軽屋敷絵図政7年(1824)写し指定文化財

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加瀬沼

加瀬沼は、多賀城市の北部、利府町と塩竈市との境にある周囲延長4キロメートル、面積は30ヘクタールにおよぶ県内最大のため池で、灌漑(かんがい)用水として、市川・八幡地区の約76ヘクタールの水田を潤しています。

沼の歴史については、記録が乏しいため確かなことはわかりませんが、昭和5年に建てられた加瀬溜井普通水利組合設立沿革記念碑には、もともと規模が小さい沼であり、市川・浮島・加瀬村の灌漑用水にすぎなかったものを、八幡、東田中村の水田へ水を供給するため、江戸時代の初め頃、天童頼長(よりなが)(後の伊達安芸宗重(あきむねしげ))が堤を築き、周囲約1里(約4キロメートル)の沼ができあがったと記されています。この堤は市川堤・加瀬堤・大堤などと呼ばれ、安永3(1774)年の市川村の風土記御用書出(ふどきごようかきだし)には、市川村・八幡村・浮島村・田中村・加瀬村の水田への灌漑用水となっていたことが記されています。

当時、水を確保することは大切な事柄であったことから、定期的に用水路を巡回・清掃するなど、用水管理が村の掟により定められていました。今日でも用水路の巡視や清掃が行われ、また、加瀬沼南岸にある水神碑前では、市川・八幡の人々により水の確保と五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る通水式が4月下旬に執り行われています。

また、加瀬沼の水は大正時代の初め頃から塩竈市民のための上水道の水源となっていました。大正末期には、水不足がさらに深刻となったことから、昭和3年、七北田川の水を加瀬沼へ送り、そこから塩竈市権現堂(ごんげんどう)の浄水場へ水を送るという工事が着手されます。昭和7年までにポンプ場、取水塔(しゅすいとう)、堰堤(えんてい)、橋などが整備されました。その後、水質悪化などにより予備的な水源となり、昭和38年、上水道用水としての役割は終わりました。加瀬沼のほとりには、今でも取水塔や堰堤・橋などが名残りをとどめています。

現在、農業用のため池としての役割のほか、歴史・自然あふれる憩いの場として親しまれており、今年3月には農林水産省により、ため池百選のひとつに選ばれています。

陸奥総社宮の信仰と祭礼

陸奥総社宮(むつそうしゃのみや)は、塩竈街道沿いの多賀城東門跡の北東にある神社です。江戸時代には奏社明神社(そうしゃみょうじんじゃ)・奏社宮(そうしゃのみや)などと呼ばれ、市川村の村鎮守(むらちんじゅ)であり、鹽竈神社(しおがまじんじゃ)の十四末社(まっしゃ)の一つでもありました。この神社については、貞享(じょうきょう)4(1687)年仙台藩主伊達綱村(だてつねむら)の寄進(きしん)により神殿が再興(さいこう)されたというものがもっとも古い記録です。

陸奥総社宮では、塩竈街道を舞台にした信仰と祭礼が現在も行われています。塩竈街道は江戸時代、仙台城下から塩竈へ至る街道であり、塩竈神社への参拝路でもありました。文政(ぶんせい)5(1822)年に仙台の儒学者(じゅがくしゃ)舟山萬年(ふなやまばんねん)の記した『鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)』には、鹽竈神社に参拝する際には奏社宮を詣でてからでないとこ加護がないと記されており、当時は、鹽竈神社へ参拝に行くということを奏社宮に申し述べてからお参りするのが順序とされていました。今日においてもその伝統は引き継がれ、初詣などの際には、鹽竈神社を詣でる前に参拝する人々で賑わいを見せています。

また、毎年4月中旬には、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る例大祭が開催されます。この祭礼は、旧暦の3月10日に開催されていたことが江戸時代の記録から知ることができます。祭の1週間前には、神輿(みこし)が巡行する塩竈街道に花が飾られ、祭が近いことを伝えてくれます。

祭礼では、古代より陸奥国の産物であった昆布を始めとする神饌(しんせん)が拝殿に奉納されます。その後、宮司(ぐうじ)共々白い布に包まれた御神体が人の目に触れぬよう神輿に遷(うつ)され、氏子(うじこ)達を担ぎ手とする神輿渡御(とぎょ)が始まります。鳥甲(とりかぶと)をかぶった猿田彦(さるたひこ)の先導のもと、鉦(かね)太鼓の音を鳴らしながら神輿が塩竈街道を通り氏子区域を巡行します。例大祭は元々、市川集落のお祭りでしたが、明治41(1908)年に村内の8社が合祀(ごうし)されたことにより神輿渡御の順路は、塩竈街道沿いの市川・南宮・山王を経て、新田・高橋の集落も巡るようになり、今日もその伝統は続いています。

旧塩竈街道

塩竈街道は、江戸時代、仙台国分町(芭蕉の辻)から原町-燕沢(つばめざわ)-岩切を通り、市内の南宮、市川、塩竈市の赤坂を経て鹽竈(しおがま)神社へと至る街道です。5里(約20キロメートル)の道のりであり、仙台からは徒歩で一日あれば往復できる程の距離でした。

この街道は、奥州一宮鹽竈神社へ参詣する道として広く知られ、街道沿いにある奏社宮(現陸奥総社宮)を詣でてから鹽竈神社を参拝するのが習わしとなっており、信仰の道として多くの人々に利用されました。

さらに、信仰と景観の地、松島へ向かう街道でもあったことから、松尾芭蕉をはじめ多くの文人・墨客(ぼっかく)が往来したことが当時の紀行(きこう)文から知ることができます。

一方、塩竈は藩内の主要な港町であり、仙台城下の外港的役割を担っていたことから、街道を利用した物資輸送が盛んに行われていました。

ところが、御舟入堀がつくられると、物資は塩竈を通さず直接仙台へ運ばれるようになったため、輸送路としての街道の役割は大きく後退していくことになります。しかし、貞享2(じょうきょう)(1685)年、4代藩主伊達綱村(だてつなむら)が、米以外の荷物や魚介類、材木を積んだ舟は塩竈港に着岸することという特令を出したことから、以後、魚介類を中心する輸送路として再び機能するようになりました。

江戸時代以来、鹽竈神社の門前町として、また、藩内屈指の港町として繁栄した塩竈を支えたこの街道ですが、明治20(1887)年、県内初の鉄道である塩釜線が開通すると、その役割の多くは鉄道へと遷っていきました。

南宮から市川にかけては、現在も江戸時代とほぼ同じ位置に道路が通り、街道沿いには寺社や古い建物、石碑などが点在し、往時の面影をしのぶことができます。

また、南宮にはかつて、一里塚があり、現在は「一里塚」という地名だけが残っています。

旧塩釜線

旧塩釜線とは、平成9年まで陸前山王(りくぜんさんのう)駅から塩釜港駅まで貨物線として利用されていた鉄道路線で、県内では最も古い歴史がある鉄道です。

この塩釜線の遺構(いこう)は、現在も高崎から留ケ谷(とめがや)にかけて、線路敷や橋梁(きょうりょう)跡として見ることができます。特に、野田の玉川に架(か)かる玉川橋梁は、昭和40・42年に一部改修されているものの、レンガ積みの橋台(きょうだい)や土留(どど)めがほぼ完全な形で残っています。この橋梁が造られた年代については、外観や形状から日本鉄道奥州線が開業した当時のものと推定されており、県内最古の鉄道遺構の可能性が指摘されています。

塩釜線の歴史は明治17(1884)年、日本初の私鉄である日本鉄道会社によって奥州(おうしゅう)線(現在の東北本線)建設計画が打ち出されたことに始まります。当初は野蒜(のびる)まで建設される計画でしたが、野蒜築港(のびるちっこう)事業が失敗したため、塩釜港が脚光を浴び、塩釜までの路線計画に変更されました。

工事は明治17年から着工され、翌年には上野-宇都宮間が開通、明治20(1887)年には塩釜駅(後の塩釜港駅・現在の仙石線本塩釜駅)まで開業しました。

開業当初、塩釜駅は奥州線の終着駅でしたが、明治23(1890)年に岩切-一関間が開通すると、岩切-塩釜間が支線扱いとなり塩釜線と呼ばれるようになります。

昭和8(1933)年になると多賀城市内には多賀城前駅(現在の陸前山王駅)が開業しました。昭和19(1944)年には蒸気機関車にとって難所であった東北本線の利府-松島間の急勾配(きゅうこうばい)を避けるため、陸前山王駅を経由して品井沼(しないぬま)に至る貨物専用の東北海岸線が開通します。その結果、塩釜線は陸前山王一塩釜間の運行となりました。

昭和31年、東北海岸線は沿線人口が多かったことや勾配が少なかったことから、東北本線に格上げされます。さらに東北本線に塩釜駅が開業し、塩釜線の塩釜駅は塩釜港駅と改称され、貨物線として利用されるようになります。しかし、平成9年には廃止され、110年に及ぶ歴史に幕が閉じられました。

貞山運河

貞山(ていざん)運河は、阿武隈(あぶくま)川から塩釜湾までの海岸線沿いに延びる日本一長い運河です。その北の東名(とうな)運河、北上運河を含めると総延長46・4キロメートルにおよびます。名称は、発案者である伊達政宗(だてまさむね)の偉業(いぎょう)を讃(たた)えるため、明治時代に政宗の法名(ほうみょう)にちなんで「貞山堀」と命名され、その後、運河取締規則の中で、現在の「貞山運河」になりました。

運河の歴史は古く、慶長(けいちょう)年間に始まり、その後、段階的に工事が行われ、明治に名取川一七北田川間の「新堀(しんぼり)」が掘られて、ようやく完成をみました。そのうち、「木曳堀(こびきぼり)」と呼ばれる阿武隈川-名取川間が、もっとも早く造られ、その年代は、慶長2~6(1597~1601)年頃と考えられています。この運河は、藩領(はんりょう)南部から仙台城下への水運と周辺谷地(やち)開発のための排水を目的としたものであり、工事は後に北上川の河川改修工事を成功させた川村孫兵衛(かわむらまごべえ)が担当しました。

一方、多賀城市域を通る「御舟入堀(おふないりぼり)」「舟入堀(ふないりぼり)」と呼ばれる蒲生(がもう)-塩釜湾間については、万治(まんじ)年間(1658~1660)までに大代(おおしろ)-塩釜湾間、次いで寛文(かんぶん)10~13(1670~1673)年に大代-蒲生間と順を追って造られました。この御舟入堀の完成により、藩領北部から仙台城下へは、陸送(りくそう)せずに物資輸送が行われるようになりました。その結果、塩釜を素通りして物資が輸送されることになり、塩釜の衰退(すいたい)を招くことになりました。そのため、貞享(じょうきょう)2(1685)年に伊達綱村(だてつなむら)は、「藩米(はんまい)以外の荷物や魚介類、材木を積んだ船はすべて塩釜港に着岸すること」という特令を出して、塩釜の町を保護したことから、以後、御舟入堀は明治になるまで米中心の輸送路として利用されました。

明治になると、野蒜築港(のびるちっこう)事業が始められ、それに伴い運河の改修が行われます。明治17(1884)年、台風の被害により事業は中止されますが、「明治廿四年河港河川調書」によると、穀類・食塩・砂糖・薪炭・魚類・石類'雑貨物の輸送に利用されていたことが記され、依然として物資の輸送が保持されていました。

昭和になり、輸送手段が鉄道などに変わっても、穀類・魚類・木材などの物資はこの運河を使って運ばれ、船が往来する風景は今も変わらず続いています。

お問い合わせ

教育委員会事務局文化財課文化財係

 〒985-8531 宮城県多賀城市中央二丁目1番1号

電話番号:022-368-5094

ファクス:022-309-2460

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