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更新日:2017年3月8日

多賀城時間(とき)の旅フォトラリー

過去に撮影された写真ポイントをめぐり、現在の姿をカメラにおさめてまわる写真版スタンプラリーを開催します。

多賀城のイマとムカシに想いをめぐらせ、お気に入りの写真を世界中の人とシェアしよう♪

※このページの画像は、クリックすると全て大きいサイズで確認ができます。

フォトラリー1

フォトラリーマップ

期間/3月18日(土曜日)~3月25日(土曜日)

参加方法などの詳細については、以下をご覧ください。

フォトラリーチラシ(PDF:1,711KB)

※チラシは、市役所2階地域コミュニティ課窓口、史都多賀城観光案内所(JR仙石線多賀城駅内)で配布しています。

撮影ポイント

マスト1多賀城駅(46年前)

マスト1

今から46年前(昭和46年)の多賀城駅(砂押川方面から見た多賀城駅)の風景です。当時は、線路も地面にあり、踏切もありました。自動販売機や公衆電話BOXなど、昭和の時代が表われていますね。この頃の駅の1日の利用者数は6,867名で、イマ(6,708名)よりも若干多い状況でした。駅舎の佇まいや社会環境(自動車の普及など)は変われど、利用者数は変わらないのも事実です。

マスト2化センター(6年前)

マスト2

東日本大震災が発生し、大津波が多賀城市内の3分の1の区域に押し寄せました。当時、避難所になった時の文化センターの様子です。一時は1,800名以上の方々が避難してきました。発災から6か月後の平成23年9月末に避難所を閉鎖し、平成24年4月から文化センターとして再稼働しています。

マスト3賀城碑(約50年前)

マスト3

今から約50年前(昭和42年頃)の多賀城碑の写真です。

都などから多賀城までの距離、多賀城創建や修造について刻まれた多賀城修造記念碑で、天平宝字6年(762年)に建立されました。江戸時代の初めに発見されたといわれ、すぐに歌枕「壺碑」の名で呼ばれたことから有名になりました。松尾芭蕉の『おくのほそ道』には、芭蕉が多賀城碑をみて涙が落ちそうなくらい感動した様子が記されています。

覆屋により保護されていますが、芭蕉が目に涙した歴史の重みは、イマもなお変わらず、ココにあります。

マスト4賀城政庁跡(14年前)

マスト4

今から14年前(平成15年)の多賀城政庁跡の写真です。

政庁は、多賀城内で最も重要な場所で、重要な政務や儀式が行われました。多賀城のほぼ中央にあり、東西103m、南北116mの区画に築地塀を巡らせ、内部に正殿、脇殿、後殿、楼などの建物を計画的に配置しています。

ここから見下ろす景色は、イマとムカシで変わった?変わらない?奈良時代の人々にはどう見えていたのかな~?

選択5奥総社宮(約50年前)

マスト5

陸奥国100社を合祀する神社です。江戸時代には鹽竈神社の14末社の一つで、鹽竈神社参詣に先立って、まずはこの神社を詣でなければ、神の加護が受けられないとされていました。

写真は、今から50年ほど前(昭和42年頃)のものです。鳥居からうかがえる本殿や景色などはイマも変わらない様子です。

選択6社宮道道標(約80年前)

マスト6

明治17・18年(1884・1885年)頃、塩竈新道がつくられたことから、奏社宮(現:陸奥総社宮)への案内表示として、大正13年(1924年)に建てられたものです。末の松山や鹽竈神社などへの距離も東西南北ごとに刻まれています。

写真は、今から80年ほど前(昭和10年代)のものです。周りの様子は大きく変わっていますが、道標はイマと変わらず、これから行くべき未来を指し示しているかのようです。

選択7前山王駅(約30年前)

マスト7

昭和17年に建設された駅で、東北本線唯一の現存する木造の駅舎です!知ってました??

選択8賀城廃寺跡(約50年前)

マスト8

多賀城と同時期に創建された多賀城の付属寺院跡です。大宰府の付属寺院である観世音寺と伽藍配置が共通しています。寺の名前は伝わっていませんが、山王遺跡から「観音寺」と書かれた土器が発見されており、寺の名前である可能性が高いと考えられています。50年前の道路は土だったんですね!?

選択9太郎稲荷神社(14年前)

マスト9

八幡村の領主であった天童氏の守護神として崇敬されている神社です。天童氏が最上氏との戦いに敗れ、関山峠を越えて逃れる際、喜太郎稲荷に祈ると、道案内をして助けたと言う言い伝えが残っています。昔は林に囲まれていたそうですよ~。

選択10の松山(約30年前)

マスト10

宝国寺の裏手、2本の松がそびえる丘が末の松山です。古今和歌集(延喜5年=905年成立)に初めて登場し、百人一首の歌にも詠み込まれている、みちのくを代表する歌枕です。

写真は、今から28年前(平成元年頃)のものです。歌があらわしているように、東日本大震災に襲来した津波も、末の松山を超えることはありませんでした。この伝承を1000年先の未来へ伝えることが私たちの使命です。

選択11の井(興井)(約40年前)

マスト11

末の松山の南、住宅地に囲まれた一画にあり、池とその中の大きな石が目をひきます。江戸時代には、仙台藩により「奥井守」が置かれて大切に保護されてきました。今なお、地域の人たちに守り継がれています。

選択12地蔵(約24年前)

マスト12

昭和17年、多賀城海軍工廠(海軍の軍需工場)の建設に伴い、現在の場所に移転しました。東日本大震災において、この地区にも津波が襲来したところですが、イマも変わらない佇まいで、お地蔵様たちは地域の人たちに大事にされています。

選択13幡神社(約40年前)

マスト13

坂上田村麻呂が勧請したと伝えられる神社です。もとは末の松山のある丘陵上にあり、八幡氏がその地に拠点を置いたことから、現在の場所に移ったと伝えられています。

写真は、今から約40年前(昭和50年頃)のものです。東日本大震災において津波が襲来し、大きな被害を受けたところですが、多くの方々とともに復興へと歩んでいます。

選択14幡橋(約30年前)

マスト14

写真は、今から約30年前(平成元年頃)のものです。当時、多賀城駅の南側に長崎屋があって、平成13年に閉店するまで駅前の顔となっていました。砂押川は悠久の時間を感じさせるほど変わらないところですが、多賀城市立図書館や子育てサポートセンターなどの新しい施設やマンションが建設されたイマ、多賀城駅周辺はだいぶ様変わりしました。この写真を見てタイムスリップ~!?

選択15もわくの橋(約40年前)

マスト15

野田の玉川にかかる橋で、安倍貞任が見染めた女性のところに通うため渡った橋なのでこの名があるといわれています。また、安倍宗任が虜となって都へ送られたとき、その妻がこの地まで追ってきたが及ばず、橋の上で涙を流した場所であったともいわれています。

選択16山運河(橋本橋)(約40年前)

マスト16

貞山運河とは、阿武隈川から塩釜湾までの海岸線沿いに延びる日本一長い運河です。その北の東名運河、北上運河を含めると総延長46.4kmに及びます。

名称については、運河整備の発案者である伊達政宗の偉業を讃えるため、政宗の法名「貞山」にちなんで名付けられたそうですよ!!

 

よくある質問

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お問い合わせ

総務部地域コミュニティ課市民活動推進係

 〒985-8531 宮城県多賀城市中央二丁目1番1号

電話番号:022-368-1141(内線:251~253)

ファクス:022-368-2369

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