歴史の風
最終更新日 平成24年4月26日
歴史を通して発信される多賀城市の魅力をシリーズで紹介します。
目次
- 窯跡(かまあと)(平成24年5月掲載)
- 伏石(ふせいし)(平成24年4月掲載)
- つぼのいしぶみ道標(平成24年3月掲載)
- みちばたの貝塚(平成24年2月掲載)
- 明治天皇の多賀城巡幸(たがじょうじゅんこう)(平成24年1月掲載)
- 石碑は語る 多賀城と斎藤實(平成23年12月掲載)
- 石碑は語る 後村上天皇(平成23年11月掲載)
- 弥生時代の多賀城(平成23年10月掲載)
- 平安時代の横笛(平成23年9月掲載)
- 多賀城碑(平成23年8月掲載)
- 貞観(じょうがん)の大地震と多賀城の復興(平成23年7月掲載)
窯跡(かまあと)
やきものブームと言われて久しい昨今です。そこで、今回は市内で発見されたやきものの窯跡(かまあと)を紹介します。
日本で最初にやきものが作られたのは、今から約1万200年前の縄文時代と言われています。当時のやきものは土器と呼ばれるもので、縄文土器、弥生土器、土師器(はじき)と時代によって呼び名が変わります。これらは、明確な窯をもたず「野焼(のや)き」によって1000度未満の低い温度で焼いたあまり丈夫でないものでした。その後、古墳時代中ごろになると、朝鮮半島から須恵器(すえき)と呼ばれる新しいやきものの製作技術が伝えられました。これ以降、本格的な窯を用いることによって、堅く丈夫なやきものを作ることができるようになったのです。
さて、陸奥国府多賀城が成立した奈良時代には、建物に葺(ふ)く瓦と日常容器の須恵器は同じ窯で作られていました。それらの窯は、当初は今の大崎市付近に、その後は仙台市の東部地域や利府町に作られました。しかし、一大消費地である多賀城が所在する市内では、窯跡は発見されませんでした。
ところが、平成18年に留ケ谷地区で行った発掘調査の際に、予想もしなかった窯跡が見つかったのです。しかも、多賀城創建時期から約100年もさかのぼるもので、この時期の窯跡の発見は宮城県内では初めて、東北地方でも福島県で発見されたものに次いで2例目でした。
この窯跡は、丘陵地斜面をトンネル状に掘り抜いて構築した窖(あな)窯(がま)(登(のぼり)窯(がま)の一種)と呼ばれるもので、須恵器を専用に焼いていました。焼成の最終段階に入り口をふさぎ、酸素の供給量を抑えることで、1200度以上の高温で焼きあげることができます。そのため、側壁や床は青みをおびた灰色に変色し、硬く焼きしまった状態になっていました。
4年後の平成22年に、今度は城南地区でこれよりやや古い時期の窯跡が発見されました。これらで焼かれた須恵器は、市川・山王地区で発見された大規模な集落に運ばれ、まつりの道具として使われたことがわかりました。このことは、多賀城成立前夜ともいうべき時代に、当時の最新技術を受け入れる進んだ環境を、当地がすでに整えていたことを物語っています。
伏石(ふせいし)
伏石は、その名のとおり、横たわった供養碑(くようひ)で、市川橋の北約200メートルの旧塩竈街道の傍らにあります。安政4年(1857年)の『仙台金石志(せんだいきんせきし)』には「市川路傍の碑」と記されているものです。
これは、市内で2番目に古い供養碑で、弘安10年(1287年)に時宗(じしゅう)の僧である西阿弥陀仏が30人あまりの協力のもと建立したことが刻まれています。
名前の由来については、伏せてあったこの碑を起こして立てたところ、市川に疫病(えきびょう)が流行したそうで、巫女(みこ)に占ってもらったところ元のままにして置いた方がよいと言われて再び伏せたので、伏石と呼んだと伝えられています。
安永3年(1774年)の「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」には、
「市川村塩釜街道脇古碑、長六尺四寸、幅二尺五寸、右者供養石に御座候処、肯山様御代一宮御参詣道に立置候儀、遠慮仕伏置申由、其儘に而指置申候」
とあり、伊達綱村(肯山)(こうざん)の鹽竈神社参詣の道筋にあたり、立っていた石を藩主に遠慮して伏せたものであるということが記されています。
この伏石は、戦前、多賀城跡や末の松山とともに絵はがきの題材ともなっており、多賀城を代表する名所としても知られていました。
このように、伏石にまつわる言い伝えは、地域の信仰と街道のたたずまいを今に伝えており、昭和48年に市指定文化財となっています。
つぼのいしぶみ道標
多賀城碑の北側、道路沿いに2mほどの高さの碑が立っており、正面、左右側面には次のような文字が刻まれています。
(正面)つほのいしふみ 是より二丁四十間 すくみちあり
(右側面)享保十四年己酉五月穀旦和州南都古梅園松井和泉掾
(左側面)仙臺府下寂照軒頓宮仲左衛門越後屋喜三郎
この碑は「つぼのいしぶみ」までの距離と道を示した道標で、もとは現在地から西へ約290m(二丁四十間)、砂押川にかかる市川橋のたもと付近に立っていました。
「つぼのいしぶみ」とは多賀城碑のことで、江戸時代初めに発見されるとすぐに、歌枕「壺碑」の名で呼ばれたことから有名になり、松尾芭蕉を始め多くの文人たちが訪れています。
道標は享保十四年(1729年)五月穀旦(こくたん)(吉日のこと)、奈良の墨専門店である古梅園(こばいえん)の六代目当主松井和泉掾元泰(いずみのじょうもとやす)(1689年〜1743年)が中心となり、仙台城下南町の紙屋主人頓宮仲左衛門(とみやちゅうざえもん)、塩竈の菓子舗主人越後屋喜三郎(えちごやきさぶろう)が加わり、建てられました。
十九世紀初頭に描かれた『奥州名所図会(おうしゅうめいしょずえ)』の「市川邑多賀碑」には、中央下の分かれ道に碑が見えます。これが壺碑への道しるべです。道標は、壺碑を訪ねる人が、分かれ道でも迷うことなくたどり着けるように設置されたもので、これはみちのくを代表する歌枕、壺碑の顕彰を願った三人の熱意で実現したものでした。
元泰は漢詩、俳諧、狂歌、書道に通じ、また中国における製墨の方法を取り入れたとされています。道標を建てた前年の享保十三年(1728年)初夏に、奥羽の名勝探訪の旅に出て壺碑を訪れ、熱心に観察した様子が、古梅園に残る資料からわかります。
つぼのいしぶみ道標は、壺碑への道しるべとしての役目は終えましたが、道標を建てた人たちの思いを今に伝えています。
みちばたの貝塚
多賀城市には、市の面積の約4分の1に広がる多くの遺跡があります。遺跡には、今でも昔の人々が使っていた道具のかけらなどが落ちています。縄文時代の貝塚は、当時の人々の食べかすである貝がらや骨などがまとめて捨てられていることが特徴です。貝がらや骨は、白く風化していて目立つことから、実際に貝塚を訪れてみると、発掘調査を行わなくても遺跡を実感することができます。
特別史跡多賀城跡内に、金堀(かなほり)貝塚という縄文時代の貝塚があります。ここには、今でも貝がらや石の道具(石器)が落ちています。昭和62年、多賀城跡を見学しにきた小学生が、貝がらと縄文土器のかけらを見つけたことが貝塚発見のきっかけになりました。一般の人が発見した数少ない遺跡です。金堀貝塚は、海から遠い丘の上にあります。当時は今よりも海岸線が西側に入り込んでいたために、内陸の丘の上にも貝塚が作られたのでしょう。
金堀貝塚は比較的最近見つかった貝塚ですが、本市の貝塚が注目されはじめたのは古く、およそ百年前にさかのぼります。日本で考古学研究がはじまった当時、日本人のルーツを探るために、縄文時代の人骨の研究が盛んに行われていました。たくさんの縄文時代の人骨を手に入れるために、全国各地で貝塚の発掘調査が行われました。貝塚は、骨がよい状態で保存されていることから注目されていたのです。
大代地区にある大代貝塚(橋本囲(はしもとがこい)貝塚)も、その当時に調査が行われた貝塚のひとつです。大代貝塚は、大正8年に発見され、東北大学教授だった長谷部言人(はせべことんど)によって調査が行われました。長谷部教授は縄文時代の抜歯(犬歯など特定の歯を人為的に抜く儀礼)の研究を全国的な学会で発表し、大代貝塚から発見された人骨についても取り上げています。この研究は、今でも縄文時代の風習を研究する上で欠くことのできない重要なものです。日本の考古学研究が始まったころから、本市にある貝塚が、全国的に注目されていたのです。
明治天皇の多賀城巡幸(たがじょうじゅんこう)
今から135年前の明治9年(1876年)6月29日、洋服の近衛騎兵や巡査を先頭に、西洋式の馬車に乗った明治天皇の行列が鹽竈神社より旧塩釜街道を西に進み、多賀城村へ入りました。総勢230人におよぶ一団の中には右大臣岩倉具視(いわくらともみ)、内閣顧問木戸孝允(きどたかよし)、宮内卿徳大寺實則(とくだいじさねのり)、侍従長東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)といった多くの政府高官も従っています。そのきらびやかな行列を一目見ようと、沿道は集まった人々で溢れかえりました。
明治天皇の地方の巡幸(天皇が各地をまわること)は、明治5年(1872年)の近畿・中国・九州の第一回巡幸から、明治18年(1885年)の山陽道巡幸まで、それぞれ1、2カ月をかけて計6回行われました。奥羽巡幸はその第2回目に行われたもので、地方の旧家に滞在・休憩し、県庁や学校、裁判所を視察するなど、以後の巡幸の形式を決める重要な巡幸となりました。すべてが西洋式の行列を見た当時の人々は、新しい時代の到来を肌身に感じたことでしょう。
それでは、当時のいくつかの記録から多賀城村での明治天皇の足取りを見てみましょう。
午前8時、宿泊先の鹽竈神社の参詣を終えた一行は東参道(裏坂)を出発、多賀城村の休憩所である市川字五万崎の菊池市郎右衛門邸に到着します。屋敷廻りには菊の紋章を黒く染めた幔幕(まんまく)が張り巡らされ、儀仗(ぎじょう)の近衛騎兵が屋敷の周囲を厳重に警護していました。休憩のための十畳の間にはじゅうたんが敷かれ、明治天皇は軍服を着用して椅子に腰かけて休まれています。
菊池邸で板輿(いたごし)に乗り換えた明治天皇は、畑道を通って政庁跡に到着、礎石の残る正殿跡付近に輿を据えてしばし遺跡をご覧になっています。次に向かった多賀城碑では、そのまま輿の内からご覧になったと記されています。
その後再び菊池邸へ戻られた明治天皇は、菊池家が保管していた「古代の箭(せん)(矢)の根」や宮城県官が用意した「古瓦(こがわら)」をご覧になり、そのおり菊池蔵之助より「多賀城碑の五色の石摺(いしずり)」と「城址案内圖(ず)」の献上を受けています。
休憩の後に一行は多賀城村を出発し、南宮村、岩切村を経て10時13分には今市村にて昼食、11時10分に宿泊先である榴ヶ岡の梅原林蔵邸に到着しています。
多賀城での滞在時間は短いものでしたが、「当所は閑静なる所故、(明治天皇は)御緩(ごゆる)りと御御休(おんおやす)みあらせ給ひし」と随行した職員が話しています。
石碑は語る 多賀城と斎藤實
多賀城政庁跡の北辺に二つの石碑が建っています。向かって右側は、流麗な草書で刻まれた「明治天皇御聖趾」で、明治9年の明治天皇行幸を記念して建てられました。向かって左側の碑は謹直な筆体で「後村上天皇御坐之處」と刻まれています。
後村上天皇(ごむらかみてんのう)の碑の裏に回ると「子爵齋藤實敬白」と刻まれています。第30代内閣総理大臣の斎藤實(さいとうまこと)がこの碑文を書いているのです。多賀城と斎藤實の関係はこれに留まりませんでした。今回は多賀城と斎藤實、そしてこの両者を結びつけた人物についての逸話を紹介したいと思います。
斎藤實は昭和10年5月に多賀城跡と山王小学校を訪れています。この時に同行した人物の一人に当時の宮城県知事、半井清(なからいきよし)がいました。この半井が多賀城と斎藤實を結びつけた人物です。半井清は、当時、後村上天皇を祀る神社を作るための多賀城神宮創建期成会(たがじょうじんぐうそうこんきせいかい)の会長も務めており、この半井などの懇願により斎藤實が総裁に就任しています。
斎藤實と半井清との関係は、斎藤實の総理大臣就任前までさかのぼります。斎藤實は日本が朝鮮を支配するために置かれた朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)の総督を務めていました。この時、同じく朝鮮総督府の重要ポストに半井清もあったのです。二人の関係はこの時に築かれたのでしょう。
建碑や神社創建といった後村上天皇顕彰の事業は、神聖なる天皇を中心に結束する、あるべき日本人の姿を指し示すという当時の国策の一環として企画されたものです。南北朝時代の南朝二代目の天皇である後村上天皇が滞在したと考えられていた多賀城は、まさに顕彰すべき場所でした。しかし大規模な顕彰事業には、国や中央政界の力が必要です。斎藤實が多賀城と関わった政治的な背景はこの点にあります。朝鮮総督府時代に築かれた半井清との人間関係が無ければ、これが実現することはなかったでしょう。
斎藤實は、昭和10年の多賀城訪問の9カ月後、昭和11年の二・二六事件により、この世を去ることになります。
石碑は語る 後村上天皇
多賀城政庁跡の正殿の北側、「後村上天皇御坐之處」と刻まれた石碑が建っています。
後村上天皇(ごむらかみてんのう)(1328年〜1368年)は、南北朝時代の天皇です。名を義良(のりよし)親王としていた幼少時代、「多賀国府」に下向(げこう)していたという記録が残っています。昭和初期、「多賀国府」は古代の多賀城と同じ位置にあったと考えられていたため、この地に石碑が建てられました。
義良親王は、なぜ都を離れて「多賀国府」にやってきたのでしょうか。
元弘(げんこう)3年(1333年)、鎌倉幕府を滅ぼした後後醍醐(ごだいご)天皇は、自らが主導して行う親政を始めました。建武新政(けんむしんせい)と呼ばれています。一方、倒幕で功績をあげた足利尊氏(あしかがたかうじ)のもとには、東国出身の武士達が結集し、大きな勢力となっていました。これは、天皇親政を目指す後醍醐天皇にとって大きな脅威でした。足利氏の勢力を抑えるために、東国の支配を強める必要が生じていました。
そこで後醍醐天皇は、自らの権威を東国に示すために、皇子である義良親王を陸奥国(むつのくに)に派遣しました。この時、義良親王はわずか6歳でした。また、側近の北畠顕家(きたばたけあきいえ)を陸奥守(むつのかみ)に任命し、東国の運営を任せました。東国統治は、この二人が要となって進められていったのです。
建武(けんむ)2年(1335年)、義良親王は、後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏から京都を奪還するため、顕家と共に「多賀国府」から出陣しました。尊氏が九州へ敗走した後は、東国統治の重要性から義良親王と顕家は再び陸奥国へ帰還しました。しかし足利氏は次第に勢力を盛り返し、陸奥国へと侵攻してきます。そして延元(えんげん)2年(1337年)正月、義良親王と顕家はついに「多賀国府」から離れることを余儀なくされ、霊山(りょうぜん)(福島県伊達市)に移ることになるのです
その後、義良親王が「多賀国府」に下向したということは長い間忘れられていました。
しかし明治中期、国語学者大槻文彦(おおつきふみひこ)の研究によって、多賀城と義良親王のつながりが注目されるようになりました。そして昭和10年(1935年)4月、後村上天皇の下向を記念した石碑が、多賀城跡に建てられたのです。
弥生時代の多賀城
約1万5千年続いた縄文時代も終わり、2千400年前に北部九州へ弥生(稲作)文化が伝わりました。その伝来ルートについては諸説ありますが、中国・山東(さんとう)半島〜朝鮮半島経由説が有力です。弥生時代は米作りが始まった時代であり、人々のくらしは狩猟・採集から稲作農耕中心の生活へと変わりましたが、その状況は、地域・地方によって異なっていたようです。たとえば、北海道や沖縄は弥生文化が伝わらず、米作りが始まったのはずっと後のことです。私たちの住む東北地方には、関東や北陸地方とほぼ同じころに伝わりました。米作りにかかわる農耕具などはいち早く伝わりましたが、お墓の形やマツリなどの風習は受け入れませんでした。東北地方にくらす縄文人の末裔(まつえい)たちは、祖先から受け継いだ伝統文化を大切にし、新しい文化の必要なところだけを吸収したと言ったほうがよいかもしれません。
ここで私たちの住む多賀城に目を向けてみましょう。弥生時代の多賀城にはどのような風景が広がっていたのでしょうか。この時代の住居跡や墓地はまだ発見されていませんが、山王遺跡(第二中学校の東側一帯)の調査では、地表下約3メートルで弥生時代中頃(約2千100年前)の水田跡が見つかりました。そこでは、足跡も見つかり、ぬかるんだ田んぼで農作業をしていた様子がうかがわれます。このころは、東北地方の各地域でも米作りが盛んに行われていたことが発掘調査の結果わかっています。その後、山王遺跡の水田は大規模な洪水にみまわれ、大量の土砂に覆われて埋没しました。これは列島規模で気候の変動(温暖化と寒冷化の繰り返し)があったとされており、自然環境の悪化から洪水などの災害が多発していたためと考えられます。このことから、弥生時代の後半は米作りには大変厳しい環境であったことが想定されます。
一方、沿岸部の大代地区には、考古学史に残る「桝形囲(ますがたかこい)貝塚」があります。大正8年に発掘調査が行われました。ここから出土した土器は当初、縄文土器と考えられていましたが、後の研究で土器の底部に稲籾(いねもみ)の圧痕が確認され、弥生土器であることがわかりました。この発見によって東北地方にも弥生文化が伝わり、米作りを行っていたことが証明されました。また、ここではカキをとったり、塩づくりもしていたようです。この地域の人々は半農・半漁的なくらしをしていたのでしょうか。
弥生時代の多賀城の歴史は、いまだ地下深くに眠っており、歴史をひもとく情報は無限に埋蔵されています
平安時代の横笛
市川橋遺跡は、多賀城跡の南側に広がる遺跡で、西側に隣接する山王遺跡まで広がる古代の地方都市が発見された遺跡です。平成14年の調査で、多賀城廃寺へと至る9世紀(西暦800年代)の道路側溝から、竹製の横笛が出土しました。通常、竹は長い年月とともに腐食し形が残ることがほとんど無いため、古代の出土資料としては全国で4例目、全体の形状がわかるものとしては唯一という貴重なものです。
古代の横笛は、東大寺の正倉院に伝わっているものが知られていますが、これと比べて発見された横笛は、装飾がまったく無い、素朴なものです。横笛は、ひとつの歌口(うたくち)(口をあてるところ)と6つの指孔(ゆびあな)(指を押さえて音程を変えるところ)があります。横笛の場合、この歌口と指孔の位置や、笛の長さや太さによって、出すことができる音階(おんかい)(音の高低によるならび。例えばドレミファソラシなど)が変わり、ひいては演奏できる曲も変わってしまいます。すなわち、横笛の形が曲を決定していることになり、全体の形がわかるこの横笛には、古代の音階が記されているともいえます。
そこで、音階の復元を試みることにしました。とはいえ、歌口の隣にある竹の節が腐食によって失われ、空洞になっているため、本物を吹いても音は出ません。代わりに、詳細な調査のもと復元品を製作し、各音階を測ることとしました。現在6つの指孔をもつ横笛は、高麗笛(こまふえ)や神楽笛(かぐらぶえ)などがあり、これらを比べたところ神楽笛に極めて近いことがわかりました。
これまで、古代に横笛でどんな曲が演奏されていたのか、知る手がかりはほとんどありませんでしたが、この調査・分析から、神楽笛に似た音階を用いた曲が演奏されていたことがわかりました。
なお、同じ市川橋遺跡からは、8世紀(西暦700年代)終わりころの琴の部品も出土しており、古代の多賀城ではさまざまな楽器による演奏が行われていたようです。
現在、復元された横笛はさまざまなイベントで演奏されており、古代の音色にふれることができるほか、多賀城史遊館においては横笛をつくって音を奏でることもできます。
多賀城碑
歌枕「壺碑(つぼのいしぶみ)」としても名高い多賀城碑。この碑には、古代の歴史書には全く見えない多賀城の創建や改修の事実が刻まれています。
多賀城碑は、多賀城の正面にあたる南門から城内に入ったすぐのところに、西を向いて立っています。碑面には、上部に「西」の一字があり、その下に11行140字が彫りこまれています。最初の5行は、平城京や蝦夷国(えみしのくに)などから多賀城までの距離が、次の5行には、神亀(じんき)元年(724年)大野東人(おおののあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762年)藤原恵美朝」(ふじわらのえみのあさかり)が多賀城を修造したことが記され、最後に碑を建てた天平宝字6年12月1日という日付が刻まれています。
碑は、江戸時代の初めごろから知られるようになり、歌枕の「壺碑」の名で呼ばれたことから、多くの文人や書画をたしなむ人たちがこの地を訪れました。松尾芭蕉もその一人で、紀行文『おくのほそ道』には、壺碑と対面したときの感動が書き残されています。
しかし明治時代になり、碑文の内容に関する疑問が出されて、碑をめぐる論争が起こり、決着がつかないまま、多賀城碑は江戸時代に作られた偽作とされ、長い時間が経過しました。
ところが、多賀城跡の発掘調査が進展すると、多賀城碑は再び脚光を浴びるようになります。碑文に見える多賀城の創建と修造年代が、発掘調査の成果とおおよそ合致したのです。これにより、碑の再検討が始められ、その結果、偽作とみなされた際の根拠については、必ずしも妥当ではないことが判明しました。
このように、碑の発見は、古代東北の政治文化の中心であった多賀城の存在を世に広め、研究や保護活動のきっかけとなりました。碑の存在があったからこそ現在の多賀城跡があると言っても過言ではないでしょう。
多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、数少ない奈良時代の金石文(きんせきぶん)として貴重であることから、多賀城碑は平成10年、国の重要文化財に指定されました。
貞観(じょうがん)の大地震と多賀城の復興
多賀城は、神亀(じんき)元年(724年)、仙台平野を一望できる松島丘陵の先端に築かれました。その規模は約900メートル四方におよび、ほぼ中央には重要な儀式を行う政庁がありました。陸奥国を治める国府として、また、陸奥・出羽両国を統轄し、さらに、東北地方北部の「蝦夷(えみし)の地」を国内に取り込む役割も担った多賀城は、奈良時代には鎮守府も併せ置かれるなど、東北地方の政治・軍事の中心でした。
この多賀城、たびたび戦禍や災害に遭っていたことが、歴史書や発掘調査でわかっています。
一度目は、宝亀(ほうき)11年(780年)に起きた伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱による多賀城の炎上です。その後、多賀城は復興するとともに、多賀城外には道路で区画されたまち並みが整備されたことが発掘調査などにより判明しています。
二度目は、この度の東日本大震災と比較されている貞観11年(869年)に起きた大地震です。この地震について記した『日本三代実録』という歴史書によると、5月26日陸奥国に大地震が発生し、建物や城壁が崩れ落ち、多賀城下まで津波が押し寄せ、人的・物的被害が多大であったことが記されています。 さらに、この記録に続いて、その後の復興に向けた様子も記されています。
貞観11年9月7日、紀春枝(きのはるえだ)という役人を陸奥国に派遣して地震の被害状況を調べさせ、同年10月13日、清和(せいわ)天皇の命令で、地震や津波の被害があった陸奥国に対し税を免除し、自活できない人々には食料を支給しました。その後、神社などで度々祈願し、人々の不安を取り除くことなども行われていました。大地震の翌年には「陸奥国修理府(むつのくにしゅりふ)」が置かれ、大宰府にいた新羅国(しらぎのくに)の瓦職人が、多賀城を再建するための瓦づくりに従事し、その技術を陸奥国の職人に教えていたことが読みとれます。これらのことを裏付けるように、多賀城跡の発掘調査では、新羅国の特徴をもつ瓦が出土しています。
津波が押し寄せた多賀城下においても、大地震前と同じように道路によって区画されたまち並みが再建され、見事復興を遂げていたことが発掘調査の成果により判明しています。
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