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更新日:2021年12月22日
多賀城は奈良・平安時代の陸奥国の国府があった場所で、多賀城跡は国の特別史跡に指定されています。標高10~50メートルの起伏の富んだ低丘陵上に立地しており、仙台平野を一望できる場所にあります。春は桜、秋は紅葉が美しく、とても風情があります。
今回は、多賀城政庁跡から、南側に向かって歩いていきましょう。
下の写真は政庁正殿跡です。政庁は、多賀城のほぼ中央にあり、約100メートル四方を築地塀で囲まれています。事務の決裁や儀式など国の重要な行事を行う場で、中央北よりに正殿、そして東西脇殿が配置され、正殿と脇殿で囲まれた空間が儀式のための石敷広場です。
正殿は政庁の中心となる建物で、重要な政務や儀式の際、陸奥国の長官=陸奥守が座る場所でした。現在は写真にあるように、正殿の基礎が整備されています。
上の写真は正殿跡の礎石です。礎石とは、建物の土台となって柱を支える石のことです。実は、36個ある礎石のうち、11個が約1300年前の実物です。皆さんご存知でしたか?
この赤丸で記したところが実物の礎石です。
また、石敷広場では当時の石が残っている箇所があります。
ぜひ現地に行って確認してみてくださいね。
政庁跡の階段を下りて道路を渡ると、見えてくるのは多賀城碑です。今から約1300年前、多賀城が修造された時に、記念碑として建てられたものです。江戸時代に土中から発見されたと伝えられています。歌枕「壺碑」の名で呼ばれ、名勝おくのほそ道に指定されています。これは、松尾芭蕉の紀行文『おくの細道』に登場し、現在も良好な景観を残す歌枕の地や名所旧跡が登録されているものです。また多賀城碑は、平成10年に国の重要文化財にも指定されています。
多賀城碑を後にし、さらに南へ進むと、多賀城の築地塀跡が見えてきます。
上の画像の、少し盛り上がっている土手状の高まりが築地塀の跡です。みなさんは築地塀という言葉を聞いたことがありますか?築地塀とは、土でできた壁で、高さが約4メートルほどあると考えられています。これは地山の土に、にがりを混ぜた土を少しずつ積み上げ、崩れないように棒で堅く突き固めてつくります。だいたい10センチ程の厚さの土を6センチくらいまで突き固めてつくるという、とても気の遠くなる作業です…。せっかく築地塀のあった場所に来たので、当時の塀と同じ長さのものさしをたててみました。
人と比べてみると、とても高い壁だったということが分かりますね!こんなに高い壁を作る技術が1000年以上前にあったことを考えると、当時の人々の技術がどれほどすごかったのかがよく分かりますね。
さらに南下し、住宅地へと入っていくと、古代の多賀城のメインストリート・南北大路の跡地が見えてきます。南北大路は城外から政庁へ向かう道路で、当初の道幅は18メートルでしたが、のち23メートルに拡幅されました。
このように、南北大路跡を幅8メートルの歩道として整備してあります。多賀城外の南側には、東西・南北大路を基準とした道路による方格地割が施され、町並みが形成されていました。
この辺りでは、車止めに多賀城の丸瓦がデザインされ、
マンホールが壺碑のデザインになっています。
また、古代の水時計をイメージした漏刻モニュメントもあり、様々な場所で古代都市多賀城の歴史について触れることができます。
歴史に思いを馳せ、四季を楽しみながら多賀城跡を散策してみてはいかがでしょうか?
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